関西訪問記Part2 その8

hj3s-kzu2009-06-06

今日はいよいよ神戸の上映会ということで、少し早めにホテルを出る。プラネット近辺でトシさま組が撮影しているのを知っていたので、反対側の歩道を歩いて中崎町まで向かう。プラネット前あたりに人だかりを確認。気づかれるとエキストラとかやらされかねないので、用心して歩く。幸いトシさまはこちらの歩道には背中を向けていたので無事通り抜けることができた。しめしめ。
大阪観光するつもりでブラブラ歩いていたら、結構な時間になってしまう。やばい。慌てて神戸方面の電車に乗る。乗客が多くて座れず。新長田のマックでチーズバーガーを買って神戸映画資料館に向かうが迷う。商店街のおじさんに場所を尋ね、ようやく辿り着く。
受付に座っているケンシロウ氏に、お客の入りはどお、と尋ねると、ロビーを指差される。一桁じゃん。不安。ところが開場時刻が近づくにつれ、来場者数は鰻上りになり、最終的には満員(やったね)。東京以来、数年ぶりに再会した支配人の田中さんによれば、インディペンデント映画でこの小屋にこんなに入るのはありえない、とのこと。
上映中、ロビーでケンシロウ氏とトークの打ち合わせ。ちょうど拙作が終わった頃、電車を乗り過ごして明石まで行ってしまった粟津さんがやってくる。ここ二週間、キリミヤ、桃、ウルマー、フィトゥッシ、神戸と続いたトーク五連発もようやく明日で終わり(こう書くと、何だか売れっ子みたいだが)。事前にお互い相手の作品を貶し合うのはよそうね、と決めたにもかかわらず、トークが始まるとケンシロウ氏のプロレストークが始まる。こちらは呆れて二の句が告げない。まあこれも彼のサービス精神の表れだろうと解釈して聞き流す。安川姉妹にもご来場いただく。打ち上げはそばの琉球居酒屋。唐津くんらと終電まで楽しく呑み。

切通理作さんと宮川ひろみさんの「切宮〜キリミヤ・シネマラジオ」で神戸での上映会の宣伝をさせていただきました。(『へばの』の木村文洋さんも飛び入り参加してます)。
切宮〜キリミヤ・シネマラジオ
http://www.voiceblog.jp/miyagawa/
(居酒屋で収録したので赤ら顔の写真がアップされてますけど気にしないで下さい)
大阪・京都のミニシアターなどで配布したチラシはこちら
http://miya.himegimi.jp/kuzuuhtm.htm
(デザインはミヤガワヒロミさん)

吉野葛』は2003年、つまり小泉(とブッシュJr)の時代に製作されました。したがって、この作品にはその時の私の気分、いわば「時代閉塞の現状」が色濃く反映されています。こうして公開にこぎ着けるまでに6年もかかってしまい、その間に安倍、福田、麻生といった最悪のトリオを経て、ようやく鳩山(とオバマ)へと政権交代し、当時、私が感じていた危機も一旦は通り過ぎたかに思われます。しかし日本の政体が真に変革されない限り、亡霊たちが回帰する可能性は常に存在しており、1931年という時代の刻印を受けた谷崎の『吉野葛』同様、私の作品も未だその意義を失っていないと信じています。

上映会に際して、敬愛する方々から拙作『吉野葛』についてのコメントをいただきましたので、以下にご紹介させていただきます。

完璧な作品だとはいうまい。ただ、ここには作者を嫉妬せずにはいられないショットが複数まぎれこんでいる。それが偶然ではないことを立証する葛生賢は、ゆるやかだが着実に映画作家への道をたどりつつある。

蓮實重彦(映画評論家)

葛生賢の『吉野葛』は、不十分な条件の下で制作された習作でありながら、ストローブ=ユイレの完全主義にも通ずる傑作となりうる潜在性を内包している。いや、まわりくどい言い方はやめよう。われわれは、この作品を通じて、先取りされた傑作と遭遇しなければならないのだ。

浅田彰(批評家)

室内と女の声を捨て去って突然に外気を発見する瞬間のエロスこそが『吉野葛』の魅力である。だから作者がマルクスを読み終えるとき観客は真の出発点に立ち会うのだ。

赤坂大輔(映画評論家)

吉野葛』はデュラスやユイレの撮らなかった映画だ。キートンの映画のように優雅で、イメージと言葉に安易に耽溺しない点において優れて詩的であり、ミエヴィルの映画のように優しげで道化ている。

堀禎一(映画監督)

Rigid and beautiful. A strong disciple of JMS.(厳格で美しい。ストローブの強力な弟子。)

ハルトムート・ビトムスキー(映画監督)

極北の自主映画が来る! http://kobe-eiga.net/program/2009/06/#a000877