誘う女

hj3s-kzu2004-03-04

a)『誘う女』(ガス・ヴァン・サント
a) この間のトークショー蓮實重彦氏が指摘していたように、確かにこの映画の想像力の核心には、ニコール・キッドマンが埋まっている氷結した湖面の上で彼女に殺されたマット・ディロンの姉がくるくるとその表面をスケートで滑走するというイメージがあったのだろう。
三バカ高校生たちが出てくるまでの前半の展開がややたるい。また狙いであるのは分かるのだが、その辺りのニコール・キッドマンがそれほど魅力的でないのも気になる。
自室のテレビ画面でお天気お姉さんであるニコール・キッドマンの番組を見ながらホアキン・フェニックスが自慰をしていると(この時、はすっぱな感じで後ろ手にお天気マークのステッカーを背後の天気図に放り投げるニコール・キッドマンのアクションは良い)、妄想の中で彼女は彼の名前を叫びながら喘ぎ声を上げながら卑猥な言葉を画面の向こうの彼にむかって呟く。彼は現実の彼女に恋をしていたのか、それともテレビ画面を媒介とした彼女に魅入られていたのか。二人が夜のドライブをして車を停めるシーンで、カーラジオから流れてきた曲を大好きというなり、ドアの外へと飛び出したミニのワンピースのニコール・キッドマンがヘッドライトに照らし出されて雨に打たれながら踊る。その姿を私たちは彼とともに車のフロントガラスを通して見るのだが、その時、ホアキン・フェニックス同様、私たちも彼女の魅力に抗うことのできない自分をそこに見いだす。『リング』(中田秀夫)の貞子のように画面を突き破って私たちの世界にやってきたりはしないが、画面の表面の限界をどこまでも押し広げつつ、私たちの思考を操作しようとするテレビのイメージは高校生たちがマット・ディロンを射殺する瞬間に再び出てくる。
ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』によれば、言葉は情報の伝達であると同時に常に指令であるのだが、アメリカの家庭生活におけるテレビというのもまさにそのようなものかもしれない。大抵それは居間の中心に置かれ、人々の視線の中心になっている。そしてそれはもちろん情報を伝達するものなのだが、それと同時にその根底にあるイデオロギーを人々に「信じよ」と指令を送っている訓育装置である。そのイデオロギーとは「自由の国アメリカ」という錯覚なのだが、それがこの映画においてあからさまに示されるのは、マット・ディロンが殺された現場に帰宅したニコール・キッドマンが、現実化されてしまった自分の欲望(=彼の死)を見て茫然自失しているときに、ちょうど放送終了の合図でテレビから流れ始めたアメリカ国歌が鳴り響くなか、何かに導かれるようにして彼女が玄関先に出ると、たくさんの報道陣のフラッシュに囲まれて、一躍「時の人」となっている自分自身を見いだすシーンだろう。テレビを通してホアキン・フェニックスを操作していた彼女もまたテレビによって操作されていたに過ぎない。

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