be found dead

a)『アラン・レネのアトリエ』(フランソワ・トマ)
b)『be found dead』(宮沢章夫/鈴木謙一/浅野晋康/冨永昌敬
a)アラン・レネの『恋するシャンソン』についてのドキュメンタリー、と言いたいところだが、「ドキュメンタリー」というのもおこがましい、テレビでよく見るインタビューの寄せ集めのような作品。退屈。
b)こういうオムニバス形式の作品は各自のセンスというか才能が残酷に露呈してしまう。お題はタイトルから明らかなように「発見された死体」。つまり、「死体」をどのタイミングでどのように見せるかで勝負が決まる。冨永昌敬はそれを見せないという聡明さで処理し、宮沢章夫は堂々とそれを見せることで勝負する。いずれの場合においても「死体」というテーマを物語の核に据えていることに変わりはない。他の二人の作品がつまらないのは、そのテーマがいずれも最後のオチとして取ってつけたかのようにおざなりに扱われているからだろう。短編を撮る場合の罠として怖れるべきはそれが小咄になってしまうことである。それは小説にしても映画にしても同じだろう。見る前の予想としては冨永昌敬の作品が一番面白いだろうという、おそらくこの作品を見に来た映画好きの誰もが思いつくものだったわけだが、意外や意外(といっては失礼だが)、宮沢章夫の作品がかなり良かった。もちろんアラがないわけではないのだが、第五話の死体発見の場面以降の転調は映像・音楽・ナレーションが相俟って、ちょっと圧倒されたし、第三話のワンシーン=ワンショットも、一見、素人のホームビデオと見間違えかねないが、実は周到に振り付けられた演出(おそらく何度もリハーサルを重ねているのだろう)がなされているだけに、もう少し登場人物たちの声の録音が明瞭であるべきだったのではないかと惜しまれる(大勢の人間がしゃべるのでやや明晰さを欠いている)。ただし前景の「死体」の画面への収まり方はもう少し何とかならなかったのだろうか。結局、オチとして機能してしまうのも気になる。冨永昌敬の作品は、さすがにこの作家だけあって、一定水準は余裕でクリアしているのだが、『亀虫』にあったような僥倖としか思えないような瞬間はなく、手堅いとは思うものの、前作からさらに前進しているというわけではない。「社長」役の梅本洋一が好演というか怪演というか、映画的被写体としてなかなかのものだった。