関西訪問記 その1

というわけで夜十時まで仕事をしてから、そのまま夜行バスに乗り込み、「シネ・ドライヴ2009」に参加すべく大阪へ。バスの車内はすぐに真っ暗になり、いつも朝寝て昼起きる習慣の人間としては、目が冴えて仕方なく、他にする事もないのでiPodを聞く。バスの大きなフロントガラス越しに見える夜の闇に現れては消えてゆく隣車線の長距離トラックやバスのテールランプの軌跡を眺めながら、ブラッド・メルドーレディオヘッドなどを聞いているうちに、何だか気分が盛り上がってきて、よし、このままコロンビア時代のマイルスのボックスセット残らず聞いちゃる!と無茶なことを考え、「セラー・ドア・セッション」から聞き始めたのだが、これが結構な分量で、野望を少しも達成せぬうちにあっと言う間に東の空が白み始める。急にローラ・ニーロが聞きたくなり、朝日を眺めながら「ウェディング・ベル・ブルース」を聞く。最高。朝七時に大阪に到着。
東梅田の風俗街のど真ん中にある小洒落たホテルに荷物を預け、近所のマック(関西だとマクドか)で朝食を取っていると、母から電話があり、姫路の親戚のおじいさんが亡くなって、今日、告別式があるので、お前も来いと言う。無茶な、と思いつつ、一時間ほど電車に揺られて姫路城そばの葬儀場へ。十年、二十年、三十年ぶりに会う親戚の皆さま方に挨拶を済ませ、喪服を用意していなかったので、告別式が始まる前に再び大阪へ。
大阪駅から中崎町のプラネット+1に直行し、今回の運営委員でもある桝井くんと軽く再会の挨拶を交わしてから、ちょうど上映が始まったばかりの『殻家 KARAYA』『彼方此方』(竹藤佳世)を観賞。踏みつぶされる生卵、腐った果物といった、いわゆるアブジェクションが、おそらく女性の胎内の「卵」とその流産というメタファーとして機能しているのだと思うが、個人的にはそうした紋切り型を超えるものが見たかった。『殻家』のヒロインの撮り方がやや魅力を欠いていたのに対し、『彼方此方』の女優たちの選択には、私的な閉じた世界からより広い観客層に向けて自らの世界観を発信するという作者の戦略が窺えるが、それかいいことなのかどうかはその後の作品群を見てみないことには何とも言えない。
で、さすがに一睡もせずに疲れたので次の上映はパスし、ホテルに戻ってチェックインしてから、シャワーを浴び小一時間ほど仮眠。再びプラネットへ。世評の高い『マリコ三十騎』『極東のマンション』(真利子哲也)をようやく見ることができた。ともにアイデアも面白いし、「母親」の登場のさせ方にある種の自己批評性を見てとることができるのだが(名演技!)、両作品とも最終的には「self」の問題に回収されてしまうのが残念。しかもその「self」の表出の仕方が、作者自身が裸で叫びながら公衆の面前を走り回る、という最悪のクリシェに陥ってしまうのが駄目だと思う。特に『マリコ三十騎』はそうしたシーンの手前で終わってくれれば、もっといい映画になったはずなのに(墓地から一旦フレームアウトしてから、赤フン一丁でスクーターに跨がった主人公がフレームインするショットや、その後のショットでキャメラに向かって語りかける「母親」も面白かった)。先ほど見た『殻家 KARAYA』『彼方此方』を「子宮系」と呼ぶなら、こちらは「オレ系」とでも言うべきか。
上映後すぐに九条に移動し、駅前のうどん屋で腹ごしらえをして(朝のマクドから何も食べていなかった)、シネ・ヌーヴォXへ。支配人の山崎さんおよびスタッフの方々にご挨拶をしてから、『十善戒』の上映を待つ。が……観客少なくね?上映後、客席の閑散さに内心戦慄しながら、そつなくプラネットの富岡さんとのトークを終える。
扇町の立ち飲み屋まで富岡さんと移動し、ヌーヴォのスタッフの方と合流。観客ゼロの監督さんもざらにいるようで、無人の会場でトークをした人もいたとか(恐ろしい……)。やや慰められる。とはいえ関西でのインディペンデント映画の上映には地道な宣伝活動が不可欠であることを痛感。あれやこれやの映画の話を楽しくお話しながら終電前に解散。