映画美学校映画祭2009 その2

映画美学校映画祭2009より。
『新・霊験亀山鉾(タートルマウンテン)』(研究科西山ゼミ)△
『こんなに暗い夜』(小出豊)○
『越路』(居原田眞美)?
『見知らぬガレージ』(小泉恵美子)×
『蛆虫商店街』(真鍋厚)×
『殊の外』(小堂真宏)△
『floating cotton candy』(土師佐知子)×

去年まで映画美学校映画祭と修了展で上映された作品には監督名を記さなかったのだが、ある作家の過去作を調べようと過去ログを検索してもヒットせず、個人的に不便だったので今年からは記載することにする。別に評価の低かった作家を辱めようとか、そういう意図は毛頭ないので誤解なきよう。
『新・霊験亀山鉾』はチラシのクレジットで監督名が「研究科西山ゼミ」とあったので、こちらもそのつもりで臨んだのだが、見始めてすぐに「おや?」と思った。というのも、役者の配置、カット割、物語の主題など、あまりにも「西山洋市」の監督作に酷似していたからだ。ならばこれは『遊星よりの物体X』(クリスチャン・ナイビー)がハワード・ホークス、『脅迫者』(ブリテイン・ウィンダスト)がラオール・ウォルシュの作品だと考えられているのと同じように、西山洋市の作品だと看做すべきなのだろうか。そう思って上映後に西山さんに問いただしてみたところ、「そんなことはない」との答えが返ってきたので、こちらもそう考えて話を進める(ちなみに撮影は西山洋市)。これまでほぼ毎年、研究科西山ゼミの新作をこの映画祭で見て来たが、どの作品も確かに西山洋市の影響がうかがえるものではあったものの、ここまで西山洋市の作品に酷似した作品に出会ったのは初めてである。ほとんど「コピー」と言っても過言ではない位だ。もちろん西山作品にしては雑な細部(特に美術)があるので、見る人が見ればそれが「オリジナル」との差異であることはわかるのだが、ついにこういう作品が出現してしまったことに見ながら複雑な思いを抱いた。確かに面白いところは多々あるし、私が西山作品について無知な一観客であったなら、その演出にも感心したかもしれないし、作品を楽しむことができただろう。しかし残念ながら私はそうした観客ではないので、やはりこのような作品に関しては批判的な態度を取らざるを得ない。この作者が西山演出を実によく研究した上で、この作品を撮ったであろうことは画面から十分にわかる。もし映画作品というものが、試験の答案のようなものだったら、この作品はかなり好成績をあげることができるかもしれない。しかし言うまでもなく、映画はそのようなものではない。つまりこの作品はゴダール風に言えば「よく出来た宿題」であり、キツい言い方をすれば「周回遅れの西山洋市」を見ているような気分になった(というのも当の西山洋市はすでに『吸血鬼ハンターの逆襲』のような凄い領域に突入しているからだ)。つくづく映画教育の可能性/不可能性について考えさせられた。
『こんなに暗い夜』は前作『お城が見える』が一部のシネフィルの間で話題になった小出豊の注目の長編デビュー作である。「最強のインディペンデント映画作家」という映画美学校設立当初の理念を今でも保持しつづけながら映画を撮っているのは、私の知る限り、『TOCHKA』の松村浩行とこの小出豊だけだが(おそらく最初の卒業生たちが商業映画で活躍し始めた頃から、この理念は急速に忘れ去られていき、今ではこの学校から産み出される作品は他の映画学校で作られた作品と大差のないものとなっている)、その志は大いに買いたい。しかもこの作品のファーストショットからラストショットに至るまで、画面からここまで「野心」というものが感じられる作品というのは近年あまりお目にかかったことがない。「フィルム・ノワール」的な物語をブレッソンゴダール的な断片化の手法で処理するという大胆かつ野心的な試みが果たして本当に成功しているかどうかは各自実際にこの映画を見て確かめて欲しい。処女短編『綱渡り』のアンゲロプロス、『お城が見える』のトニー・スコットとこの映画作家の演出における参照枠は常に変遷し、その意味では実に器用な作家だと思わざるを得ないし、個人的にはそこに贅沢な不満も感じなくはないのだが、とはいえ、一旦、玄関を出た森田亜紀が、すぐにもう一度、扉開いてこっそりと夫の靴を盗む仕草は、『綱渡り』の少年がお気に入りの雨傘を取り戻すべく玄関の扉を開ける仕草を思い出させるし、宮本りえの頭頂部が屋上のドアに叩き付けられる即物的な暴力描写は『お城が見える』の哀れなマネキン人形を誰もが想起するだろう。つまりこうした主題系の一貫性を認める限り、やはりこの作家のある種の「しつこさ」を感じざるを得ないし、それはこの作家が映画作家であることの証しでもある。ただし個人的に気になった箇所が全くないわけではない。やはり「犬が人を噛む」という描写をあのような映像と音響の連鎖で表現するのが果たして正しい選択だったのだろうかという点には大いに疑問が残るし、二人の人物をウェストショットで画面に収める時のフレーミングがややルーズなのもやはり目についた(この映画の魅力の大きな部分が画面の力に負っている以上)。一番、致命的だと思われるのは、この作品から「運動性」や「偶然性」がほぼ排除されていることである(ブレッソンゴダールは決してこれを廃棄しない)。とはいうものの、繰り返しになるが、ここまで野心に満ちた作品は今どきの「若手日本映画作家」(今月の「文学界」が映画特集を組んで、「黒沢・青山以後」の何人かの映画作家を取り上げているが、題材の新奇さを映画における新しさと取り違えている彼らの語る言葉の自堕落さにはひたすらうんざりさせられる)には見ることのできないものである。時折、絶妙な瞬間にインサートされる大ロングを見るだけでもこの映画作家の実力が確かなものであることは一目瞭然だし、終盤、刑事に囲まれた宮本りえが突然、空を見上げる身振りの素晴らしさには感銘を受けた(続く「天」との切り返し)。もしかすると、それまでこの映画から「運動性」がことごとく流産させられていたのは、この身振りの直後の彼女の一瞬のアクションに作家が全てを賭けたからなのだろうか。
『越路』は、一見すると我が子を撮ったホームビデオと変わらないように思われるかも知れないが、そう思って見始めると2ショット目で心地よく裏切られる。一歳児が0歳の時の自分の姿(果たして彼はそこに映った赤子が自分であることを認識しているのだろうか?)をテレビモニターに認め、泣き出す姿が画面に収められているからだ。以後、見るものはひたすら0歳の赤子の泣声と一歳の彼(つまり現在時)の泣声の二重奏を耳にすることになるのだが、こうした編集が確信犯的なものであることは明らかであり、そこに『泥棒猫』という映画的な自由に満ちあふれた素晴らしい作品を撮ったこの作家のユーモアをそこに認めることができる。作品内におけるこの視線の二重性に加え、本日は実際に、この一歳児が観客として母親とともにおとなしく(泣きもせずに!)ちょこんと母親に抱かれて一心に画面を見つめていた模様で、さらに視線が三重となり、そもそもこうした年齢で自分の姿を暗闇の記憶とともに大きなスクリーンで見る機会のある人間はなかなかいないと思うので、個人的にはその事実が実に興味深かった。
『見知らぬガレージ』は、おそらくシナリオの段階ではそれなりに面白かったのだろうと想像されるが、作者がそれを表現するための演出手腕を欠いているので無惨な出来となった。一番ネックだと思われたのは、ある種の非日常的な世界であるはずの作品の舞台にヒロインが入る決定的な瞬間を描いていないために、この舞台が日常と地続きの平板なものにどうしても見えてしまい、だから後半、なぜかヒロインがそこから抜け出すことができないといくら台詞で説明されても、見ている方はさっぱりわからない点である。シナリオをただ映像化すれば映画になるわけではない。シナリオを書いた本人がそれをキチンと読めていない見本のような作品。
『蛆虫商店街』は、観客を不快にすることを目的にしただけの作品のように思えたが、それなりに作品世界が構築されているとはいえ、他人のファンタスムにつき合うほどこちらも暇ではない。
『殊の外』は、やはり出発点は作家の個人的なファンタスムなのだとは思うのだが、こちらは観客を自分のファンタスムにつき合わせることに対して作家が自覚的なので、最後まで興味深く見ることができた。薄暗いアパートの一室に監禁された若い女子高生と彼女を監禁した若い男の物語なのだが、途中で両者のパワーバランスが逆転し、しかも犯罪行為が犯罪でなくなる論理の展開が面白い。また密室からいきなりだだっ広い校庭を彼女が駆け抜け、その真ん中に敷かれた布団に潜り込む画面連鎖は素晴らしい。基本的にサイレントなのだが、タイポグラフィのような字幕の付け方も面白かった。ただラストのバス停のシーンは上手くいっていないと思う。また二人の間に性的な関係へと発動していく可能性が排除されていたのが不思議だし(関係を結ぶにせよ結ばないにせよ)、そこは作家自身が無意識的に逃げているような印象を受けた。こういう題材を扱うならそこはキチンと向き合った方がいいと思う。
『floating cotton candy』は、前半、ポップな感じを目指しているのかと思いきや、後半、近親相姦的なドロッとした展開になってきてそのアンバランスさが上手く処理できていないような気がする。またポップさを目指していたとしても、映像・音響面での鋭さがないのでセンスのある感じにはなっていないし、後半の展開にしても前提となる人間関係をキチン描いていないので、あくまでも表面的なイメージに終わってしまっている。
なお当初アナウンスされていた『収穫』の粟津慶子の新作が、完成が間に合わなかったとのことで上映されなかったのは実に残念。これを楽しみに来ていた観客も多かったのではないか。
上映後、山中貞雄シンポジウム帰りの西山さんを交え、当然のごとく朝までコース。