ヤマガタ2009 その2

a)「ナトコのじかん」より
『16ミリ映画について』『公民館』『スクェア・ダンスを踊ろう』『格子なき図書館』○
b)『アポロノフカ桟橋』(アンドレイ・シュヴァルツ)△
c)『アラン』(ロバート・フラハティ)◎
d)『伊勢志摩』(本多猪四郎)○
e)『夜間中学』(本多猪四郎)◎
f)『サドのための絶叫』(ギー・ドゥボール)○
g)『かなり短い時間単位内での何人かの人物の通過について』(ギー・ドゥボール)△

ヤマガタの朝はナトコから始まる(今決めた)。ということで早起きしてソラリスへ。『16ミリ映画について』はタイトルの通り、16ミリ映写機の使い方についての解説だが、アメリカ人の子供のボケとオフの声のツッコミの掛け合いが一々面白い。笑いながら映写機のメカニズムが学べるし、映画学校の映写実習の教材として最適なのでは。オススメ。『公民館』は、今まで公民館というものの存在意義がよく分からなかった自分にも、この施設が戦後の民主化に大きな役割を果たしたことがよく理解できた。また地方の公共図書館は公民館から枝分かれしてできたものだと知り、そういえば地元の図書館が以前、公民館付属の施設だったことなどを思い出す。『スクェア・ダンスを踊ろう』は冒頭、何カットもスクェア・ダンスのシーンがナレーションなしに続き、これが延々続くのだろうか、まるでエド・ウッド脚本の『死霊の盆踊り』みたいじゃないか、などと考えていたら、しばらくして普通にスクェア・ダンスの踊り方講座(実際に自分ができるとは思えないが、実に分かりやすい)が始まったのでホッとする。一体、あの冒頭のボンクラさ加減は何だったのだろう。他のところの編集は的確なのに。『格子なき図書館』は開架棚というのが戦後になって広まったものだということが分かってタメになった。しかも昔は図書館って有料で内部は金網張りだったのね。

『アポロノフカ桟橋』はただ85分間、目の前を映像が通り過ぎていった感じで後には何も残らなかった。技術的にはケチつけようがないのだが、そもそもこの作者は何が撮りたかったのだろう。桟橋?そこに集う人々?彼らの生活?どうも焦点が絞り込めてないような印象を受ける(管見した限り、今年はそんな新作ばっかりだったような気が)。
『アラン』は某鬼編集者と今年のフラハティ賞はこれで決まり!ということで意見が一致する。スクリーンで見直して改めて素晴らしいと思った。水面下をゆっくりと泳ぐサメの動きの官能性やら岸壁に打ちつける波しぶきの崇高さといったら!この映画が作られて70年以上経つわけだが、結局、フラハティの作品を超えるドキュメンタリー映画はついに出てこなかったのではないかという疑念が一瞬、脳裏をかすめる。見れば必ず、これこそ「映画」だ!と叫びたくなる作品(特に「ドキュメンタリー」は腐るほどあれど、「映画」が不足している環境においては)。フラハティの『アラン』に感銘を受けて映画を志したという(!)本多猪四郎のデビュー作『伊勢志摩』は、農作には適さない土地に住む人々がそれでも何とか工夫して狭いスペースに田畑を作るところが『アラン』との共通点かなと思ったりした。海女の仕事ぶりも興味深い。『夜間中学』は、文房具の紛失事件をきっかけに、昼間部と夜間部の学生との間で共有する同じ机の引き出しをポスト代わりに手紙のやり取りが始まるというアイデアが実に秀逸。この点、ちょっと『蘇州の猫』(内田雅章)を想起した。
で、楽しみにしていたギー・ドゥボール特集を市民会館小ホールの手作りのスクリーン、パイプ椅子という環境で見る。スクリーン、もう少しピンと張って欲しかった……(横パンになると映像が波打って見える)。で『サドのための絶叫』だが、まあ見ていない人にネタバラしするのも何なのでいつか機会があったら見てねとだけ言っておくが、上映中ケータイで通話をしている馬鹿がいて(「あ、今ドゥボールの映画見てんだけど…(通話しても)大丈夫、大丈夫」みたいな・笑)、しょうがねー奴だなーと思いながらその場の状況を楽しんでいたのだが(そういうハプニングを許容する作品だとは思う)、どこかから「出て行け!」との怒号も聞こえた(後でその声の主を聞いて二度びっくり)。もしかしてこのやり取りも仕込みかなと一瞬その場にいた誰もが思ったと思うのだが、そうではなかった模様(もし仕込みだとしたら寺山修司の映画くらい時代遅れよね)。余談だが北京のシネコンとか行くと上映中、普通にガンガン、皆ケータイかけまくっているらしい。『かなり短い時間単位内での何人かの人物の通過について』はパロディアス・ユニティの8ミリみたいだった。この二本を見て思ったのは、ドゥボールって全然、「映画に(反)対して」ないじゃん、ってこと(爆)。むしろ映画に保護されているような気も。ただ松本人志はドゥボール見てから映画撮ればよかったのにとは思った(つまり、ちょっとやそっとじゃ映画なんて壊れないのよね、残念ながら)。また書物から想像していたのとは違い、ドゥボールってラジカルというよりはリリカルな人だということは分かった。あと高橋洋さんは現物見たらがっかりすると思うので見ない方が幸せかも。ちなみに『サドのための絶叫』はデジタル上映だったのだが、これこそフィルムで上映しないと意味ないと思う(しかもデジタルで白画面見ると目が辛い)。
上映後、会場の出口に知り合いが沢山いたので香味庵へ。呑んでいたら自主ゼミのKくんがやってきたので、フラワイにスカウトする。一日一善。