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現代映画論

概要は例年通りです。

教室は2E-102に変更になりました。

hj3s-kzu.hatenablog.com

Happy New Year !

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 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 

それでは早速2015年のベストテンを。新作、旧作ともにスクリーンで見たものに限定。

 

その前に特別賞を。

 

『アンジェリカの微笑み』(マノエル・ド・オリヴェイラ

 

オリヴェイラの新作がもう見られないと思うと本当に悲しい。彼の80年以上にわたる映画人生のうち、日本の私たちが同時代的に彼の作品に親しむことができたのは、たかだか最後の25年ほどに過ぎないが、その間、常にそれらは驚異であり続けた。彼の遺した作品のうち、まだ日本で公開されていないものは山ほどあるので、その公開に期待したい。

 

さて新作映画ベスト。先達に敬意を表し、生年順。

 

『ジャクソン・ハイツ』(フレデリック・ワイズマン

『アメリカン・スナイパー』(クリント・イーストウッド

『私の血に流れる血』(マルコ・ベロッキオ

『ラブバトル』(ジャック・ドワイヨン

マッドマックス 怒りのデス・ロード』(ジョージ・ミラー)

『黒衣の刺客』(侯孝賢

『ホース・マネー』(ペドロ・コスタ

『今は正しくあの時は間違い』(ホン・サンス

アラビアン・ナイト』(ミゲル・ゴメス)

『ティップ・トップ』(セルジュ・ボゾン)

 

さらにベスト短編。

『水槽と国民』(ジャン=マリー・ストローブ

 

次に旧作映画ベスト。製作年度順。

 

『青春双曲線』(韓瀅模、1956

『港まつりに来た男』(マキノ雅弘1961

『ヨーヨー』(ピエール・エテックス1965

『阿片台地 地獄部隊突撃せよ』(加藤泰1966

『やさしい女』(ロベール・ブレッソン1969

ベートーヴェン通りの死んだ鳩〈ディレクターズカット版〉』(サミュエル・フラー1972

『チリの闘い武器なき民の闘争』(パトリシオ・グスマン、1975-78

『水晶の揺籠』(フィリップ・ガレル1976

『訪問、あるいは記憶、そして告白』(マノエル・ド・オリヴェイラ1982

『美しい都市』(アスガー・ファルハディ、2004

 

なおNFCの「未知のウェルズ」には今年最大の映画的刺激を受けた。私たちはまだオーソン・ウェルズについて何も知らない。

 

コントレ賞こと新人監督賞は『The Summer of Sangaile』のアランテ・カヴァイテ(Alanté Kavaïté)に決定!

よいお年を!

大晦日なので一年を振り返る。今年はシネマキネマでゴダールについて語った以外はほとんど何もしていない(笑)。昨年「シネ砦」のために書いたルビッチ論は、こちらの都合で「中央評論」に掲載させてもらった。代わりに前者にはヴィゴ論を書くことを約束していたのだが、今年の後半に交通事故に遭い、結局書くことを断念(ついでに愛車のチャリも大破。今年はこの他に結石にもかかり、おかげで一年に二回も救急車に乗る羽目に。ホントに今年後半はロクなことがなかった)。とはいえようやく「シネ砦」が刊行されたのは実にめでたい。来年は初の批評集を出す予定なので乞うご期待。

さらば、愛の言葉よ

ゴダール『さらば、愛の言葉よ』(2014)レジュメ(ラジオ関西「シネマキネマ」2014/3/11放送分)

 

(以下に掲載するのは、ラジオ関西「シネマキネマ」で『さらば、愛の言葉よ』について語るために書かれたレジュメである。実際の放送では「『さらば』において具体的に犬はどのように描かれているか?」以降の部分が使われたが、せっかくなのでここに全文公開する。なお〔 〕内の言葉は実際のトークの際に付け加えたものである)

 

○「自然のなかに裸はない、動物はゆえに、裸であるがゆえに裸ではない」

 

作中で語られるこの言葉はジャック・デリダ『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある(L’animal que donc je suis(*「追う/である」がかけられている))』(1997/2004)からの引用をパラフレーズしたものである(邦訳20頁)。

 

この書物は冒頭で、バスルームで全裸になったデリダが飼っていた子猫のもの言わぬ眼差しに恥ずかしさを覚えたエピソードから語り始められ、デカルト、カント、レヴィナスラカンハイデガーといった思想家の動物観を考察していく。

 

この冒頭のエピソードにすでに「動物」「裸」「言語」「眼差し」といった『さらば、愛の言葉よ』にも共通するモチーフが現れており、ゴダールにとってこの書物が数ある参照項の中でも映画を着想するにあたっての主要な源泉になっていることが推測される。

 

ここで取り上げられている思想家のうち、ゴダールが1960年代後半から今日に至るまで頻繁に言及するのが、『存在と時間』(1927)で知られるハイデガーである。彼は『論理哲学論考』(1921)や『哲学探求』(1953)で知られるウィトゲンシュタインと並んで20世紀最大の哲学者であり、ゴダールも1982年のインタビューの中で、映画を作りながら、二人の著作を読んでいると語っている(邦訳『全評論・全発言Ⅱ』430頁)。

 

ハイデガーは『形而上学の根本諸概念』(1929/30)と題された講義録で以下のような奇妙なテーゼを述べている(邦訳293頁)。

  1. 石は無世界的である(世界がない)。
  2. 動物は世界貧乏的である(世界に貧しい)。
  3. 人間は世界形成的である。

ここでいう「世界とは精神的世界である」。動物は環境世界に閉じ込められており、存在者をそのもの「として」認識できない(例えば「岩盤の上で太陽を浴びているトカゲ」にとっては「岩盤」や「太陽」はそのもの「として」認識されず、硬さや暖かさがあるだけである)。これは動物が言語を持たないからである(ここでアリストテレスの「人間はロゴス(=言語/理性)的動物である」という定義を思いだしてもいいかもしれない)。つまり、この「として」構造の有無が人間と動物をわける。

 

デリダは、ハイデガーナチズムとの関係について考察した『精神について』(1987)ですでにこのテーゼを検討している。デリダによれば、しかし、ハイデガーは『形而上学入門』(1935)では「動物は世界を持っていない」と述べており、そこに齟齬がみられる(邦訳83頁)。つまりハイデガーの思想において、動物の地位は揺れ動いていることがわかる。これはハイデガーにとっての「精神」という概念の曖昧さに由来する。

 

『精神ついて』では、それまでハイデガーの著作ではカッコつきで使われていた「精神」(なぜならこの語は、ハイデガーが破壊=解体(Destruktion *デリダ脱構築(Déconstruction)はその仏訳)しようとするデカルト以来の「主体性の形而上学」の中心概念だから)が『ドイツ大学の自己主張』(1933)においてカッコ抜きで使われていることを指摘している(邦訳54頁)。

 

『ドイツ大学の自己主張』とは、すでにナチに入党していたハイデガーの(フライブルク大学)総長就任演説で、そこでは国家=民族共同体への労働奉仕、国防奉仕、知の奉仕が説かれていて、ハイデガーのナチ関与の重要な証拠として有名である(彼は翌年、総長を辞任するが、その後の『形而上学入門』にも「この運動〔=ナチズム〕の内的真理と偉大」という文言がみられる(邦訳323頁))。

 

○「1789年の200年後に」制定された「世界動物権宣言」への言及

 

1789年 人権宣言(フランス革命

1889年 ヒトラーハイデガー誕生(反=人権主義者)

1989年 世界動物権宣言(ベルリンの壁崩壊)

 

人権宣言(1789)と世界動物権宣言(1989)を隔てるちょうど中間の時点でヒトラーハイデガーが誕生(1889)したという驚くべき偶然(必然?)。つまり人権宣言が行われたちょうど100年後に人権の敵が誕生し、そのさらに100年後に今度は動物権宣言が行われるとは。1889年についてゴダールはこの作品では直接語っていないが、歴史における偶然の符号に強い興味を示す彼がこの事実を知らぬはずはあるまい。ついでに言えば、ウィトゲンシュタインチャップリンも同じ年に生まれており、ゴダールの『映画史』における主要人物は揃って同じ年に生まれている(なおヒトラーウィトゲンシュタインは同じ高校!)。

 

ところでゴダールイーストウッド、ワイズマンの三大巨匠が1930年生まれだということは、映画好きにはよく知られた事実だが、実は先ほどから問題にしているデリダも同じ年の生まれである。

 

そこで『さらば、愛の言葉よ』においては、ヒトラーハイデガーという1889年生まれの強力なペアとゴダールデリダという1930年生まれのペアがタッグマッチを水面下で繰り広げているのではないか、という仮説をここで立ててみたい。ここで争われているのは「ナチズム」と「動物」をめぐる戦いである。

 

余談だが、ゴダールはかつてデリダについて「文体をもっていない」といい(邦訳『全評論・全発言Ⅲ』601頁)、デリダゴダールからの影響をインタビューで尋ねられ「これっぽっちの影響」ももたらしていないと答えている(邦訳『デリダ伝』600頁)。〔ゴダールは基本的に同時代人をあまり評価しない人間なので、デリダの生前は彼のテクストを引用したりすることはなかったが、彼の死後、『ゴダール・ソシアリズム』と本作品では彼のテクストを引用している〕

 

○「思考でないものが思考を汚染するのかはまだわからない」

 

彼女について私が知っている二、三の事柄』(1967)に始まり(『「ヒューマニズム」について』(1947)からパラフレーズされた「言語って、人間が住んでいるお家のことよ」というマリナ・ヴラディの台詞)から前作『ゴダール・ソシアリズム』(2010)に至るハイデガーからの直接的な引用は、今作においてストップする。タイトルに「言語」(Language)が含まれ、しかも「動物」まで出てくるにもかかわらず。そしてサルトルレヴィナスブランショデリダといったハイデガーに影響を受けたフランスの思想家が引用されているだけに、これは一層奇妙に思われる。

 

代わりに登場するのが冒頭の「3」つの字幕の2番目に登場するこの謎めいた言葉である。これはハイデガーが1930年代から1970年代まで書き続けた手記(通称『黒ノート』)がこの映画の製作時に公刊された際の新聞記事からの引用である。

 

ハイデガー自身はナチ関与問題について戦後沈黙を守り通したが、1987年にヴィクトル・ファリアスが『ハイデガーナチズム』を出版し、改めてフランスを中心にこのトピックが浮上した(デリダの『精神について』もその渦中に刊行された)。それは戦後のフランスの思想界にハイデガーが与えた影響が大きかったためである。この論争で問題になったのは、ハイデガーは総長辞任後もナチだったのか、そしてそれはどの程度のものだったのか、という点であるが、ハイデガーがナチの人種主義的イデオロギーに対しては批判的だったために「反ユダヤ主義」だとはみなされていなかった(しかも彼の友人や教え子にはユダヤ人が多かった)。

 

しかし『黒ノート』の刊行によって事態は一変する。そこには「世界ユダヤ人組織」といった陰謀論ハイデガーが本気で信じていたと思われるような文章があり、彼が「反ユダヤ主義」的な志向を持つことが疑い得なくなった(これについては『みすず』2014年7月号の三島憲一ハイデガーの『黒ノート』をめぐって」を参照)。

 

○『さらば』において具体的に犬はどのように描かれているか?

 

通常の映画では犬(あるいは他の動物)は、

  1. キャラクター(登場人物)として物語に組み込まれる(例えば『名犬ラッシー』)。
  2. 物語に組み込まれず、風景の一部、あるいは登場人物の付属物(ペット)として扱われる。

のどちらかである。これまでのゴダール作品でも動物は登場しているが、主に後者の扱いである。

 

ところが『さらば』では犬が全編大々的にフィーチャーされながら(3Dがこの印象をより強める)、キャラクター化(=人間化)が全くなされていない。これは驚異的である。犬が他の登場人物と一緒に映るカットは皆無だし、基本的に首輪(ペットであることを示す)もしていない(実は注意して見ると、後半、「3」回だけ首輪をつけたカットがあるが、この3回という数字に意味があると思われる)。

 

○犬の眼差し

 

ところで犬のカメラ目線のショットが何度か登場するが、これは今までのゴダール作品の登場人物たちのカメラ目線と同じものと考えることはできるだろうか?

 

実はゴダール作品ではカメラ目線といっても二種類ある(ここでは『勝手にしやがれ』(1959)を例に取ろう)。

  1. 俳優によるカメラ目線(ジーン・セバーグ
  2. 通行人によるカメラ目線(シャンゼリゼでの)

両者はその位相が明らかに異なる。演出家がコントロール可能な俳優によるものと、そうではなく偶然的に映り込んでしまったコントロール不可能な通行人によるものとの違いである。

 

通常、後者はフィクション映画においては、仮に撮影時に映り込んだとしても編集時に排除される(そもそも他の映画ではエキストラを使ってコントロール可能にする)。なぜならせっかく入念に構築したフィクション空間が異物の侵入によって崩壊するからである。しかしゴダールは編集であえてそれを残す(フィクションのドキュメンタリー化)。逆にワイズマンのドキュメンタリー映画ではカメラ目線は徹底的に排除される(ドキュメンタリーのフィクション化)。

 

『さらば』の犬のカメラ目線は後者ではないだろうか?

 

一般に映画で動物が使われる場合、それは調教された(=コントロール可能な)ものである(例えば『名犬ラッシー』)。これは映画史的には『ローヴァーに救出されて』(ヘップワース、1905)の犬からすでにそうである(ジプシーに誘拐された赤ん坊の居所を犬が見つけ出し飼い主に知らせるという物語。そのコンティニュイティ編集がグリフィスにも影響を与えた)。そうでない場合、撮影現場にコントロール不可能な不確定要因を持ち込むことになり、リスクが増大するからだ。

 

こうしたリスクは動物以外に素人の子供(子役としての訓練を受けていない)によってももたらされ得るが、優れた映画作家はあえてこのリスクに挑戦することがよくある。ゴダールもそうした一人である。

 

また犬が犬として徹底的に扱われているのと同時に、『さらば』では人間が動物のように扱われている(裸で歩き回り、排便する俳優たち)。

 

ところで、彼らの姿(特に痩せたアラブ系の男優)は『映画史』に出てくる強制収容所ユダヤ人たちの映像を連想させないだろうか?(動物化=非人間化)なお収容所ではユダヤ人たちは「ムスリム」と呼ばれた。

 

○『フランケンシュタイン』誕生のエピソード(1816)

 

パーシーとメアリーのシェリー夫妻は不倫の末、レマン湖畔に駆け落ちしてきていた(すでに登場した2組のカップルの状況との類似。つまり「3」組目のカップル)。余談だが、ここでの羽ペンの音は先の排便音とともにこの映画の視差の強い3Dとともに見るものに強い抵抗感を与える。

 

パーシーの『ピーター・ベル三世』の朗読(「ドイツ兵たち、収容所、混乱」)はアウシュビッツの予言のように響くが、このような転用は『映画史』でのユゴーの引用(サラエヴォ内戦についてのコメントに聞こえる)のようにゴダールの得意とするものである。

 

だが、なぜ『フランケンシュタイン』なのか?

 

これは「駆け落ちしたカップル」「レマン湖畔」『ピーター・ベル三世』の引用といったモチーフから『さらば』に組み込まれたものだろうが、この怪物は「ナチズム」の恐怖を連想させると同時に、そのハイブリッド性において『さらば』そのものだと言えないだろうか?

 

犬の眼差しに映る世界とは、先のハイデガーに従えば、「として」構造を欠いた(つまり「Adieu au Language」)光と音響の氾濫する断片化した世界である(例えば犬の前を列車が通過する印象的なシーンのように)。この世界と人間の世界を一本の映画の中でいかに接合するか。これが『さらば』の主題なのではないだろうか(単純に犬の眼差しだけではなく)。これはハイデガーにおいてネガティヴに捉えられていた「として」構造の欠如をポジティヴに反転させる(そして映画だけがそれを可能なのだ)。〔ラストの犬と赤ん坊のなきごえはそのハイブリッド性の記号として聴くことができるだろう〕

 

ヒトラーハイデガーフランケンシュタインの怪物=「ナチズム』機械に対して、ゴダールデリダは『さらば、愛の言葉よ』という怪物(フランケンシュタインならぬ『フランケンウィニー』(ティム・バートン)?)で対抗する。

 

そしてそこに現れる新たな芸術作品(=映画言語)に対する挨拶こそ、「さらば、言語!」ではなく「こんにちは、言語!」(スイスのヴォー州におけるAdieuの意味*この話は『ゴダールの決別』(1993)ですでに話題になっている)なのではないだろうか?

 

〔最後にこの作品にふさわしいと思われるテクストをドゥルーズの遺作である『批評と臨床』(1993)の序文から引用する(邦訳9頁)。彼は(二十年前に)すでに亡くなっているので、この作品を見ることはなかったけれど。「作家は、プルーストの言うように、言語の内部に新しい言語を、いわば一つの外国語=異語を発明する。彼は、文法上あるいは統辞法上の新たな諸力を生み出すのである。彼は言語をその慣習的な轍の外へ引きずり出す。つまり、言語を錯乱させるのだ。のみならず、書くことの問題は、見ることと聴くことの問題と分かち得ないものでもある。なにしろ、言語の内部にある別の言語が創り出されるや、「非統辞法的」で「非文法的」な臨界へと近づき、あるいは自分自身の外と交感するようになるのは、言語の総体なのだから」〕

 

※なお、映画の中に出てくる様々な引用の出典に関しては、Ted Fendtによる労作を参照した。

https://mubi.com/notebook/posts/adieu-au-langage-goodbye-to-language-a-works-cited