ルーヴル美術館への訪問 その2

a)『ルーヴル美術館への訪問』(ストローブ=ユイレ
b)『明日、引っ越す』(シャンタル・アケルマン
a)(以下に読まれるテクストは昨日の日記の続きではなく、それと対になるべく書かれたものであり、あわせ読まれることが望ましい)

「この絵をしかるべき場所に、光の中に…皆に見えるように…。」ラストちかくでセザンヌ(ジュリー・コルタイという女性によって演じられている)によってほとんど叫ばれるようにして語られるこの台詞が、この映画の主題を要約している。対象にそれにふさわしい光を返してやること。ストローブ=ユイレのほとんど全ての映画がそうであるように、この作品に登場する数々の美術作品にあてられた照明はあまりにも素晴らしく、この映画を見ると私たちが普段、美術館で見る作品がいかにひどい条件のもとで展示されているかが分かる。例えば黒画面の後に現れるアングルの『泉』はその対象の存在論的とも言うべき位相で私たちの瞳に迫ってくる。たとえ、劇中のセザンヌがこの絵画をどんなに批判していたとしても。これは『パッション』(ゴダール)の中で、イエジー・ラジヴィオヴィッチが演じる映画監督が「光がよくない」と言って撮影を中断してしまうのにもかかわらず、実際にスクリーンに見られるのはラウール・クタールによって見事な照明があてられた場面(興味深いことに、ここで登場する活人画のモチーフのひとつは、このストローブ=ユイレの作品にも出てくるドラクロワの『十字軍のコンスタンティノープル入城』である)であることとよく似た事態だと言うべきだろう。そしてこの作品の素晴らしさは何も光だけに限られてはない。冒頭のルーヴルの外観を捉えたパン・ショットのすぐ後に続く比較的長めの黒画面に被さるナレーション(そう、この映画は『セザンヌ』がそうであったように「朗読映画」である)で聞かれるのは、あまりにも生々しい声の現前である。これほど真近に迫ってくる声をこれまで私たちは映画で耳にしたことがあっただろうか。この映画では女性の語り手の息づかいや口蓋で舌が転がる音まではっきりと聞きとれる(録音はジャン=ピエール・デュレ)。あまりにもクリアなので、黒画面の中で聞くと、こちらまで何か急き立てられるような切迫感がある。つまりこの映画は真の意味の「実験映画」なのだ。といっても、ある種の前衛的な美学に閉じこもった映画ということではなく、映画の物質的な側面において、その可能性を押し広げるような実験性に満ちた映画だという意味においてである。このような若々しさに映画の冒頭でいきなり触れた瞬間、前作の『放蕩息子の帰還』のラストに漂っていた諦念に心もとない思いを感じていた私たちの懸念はすぐさま吹き飛んでしまう。いつもの自信に満ちあふれたストローブ=ユイレが戻ってきたのだ。そしてこの作品を特徴づけるもう一つの点は、その題名『Une visite au Louvre』に含まれる不定冠詞の「Une」である。正確を期するならば、この映画の題名は『ルーヴル美術館への訪問』ではなく、『ルーヴル美術館へのある訪問』なのだ。彼らは何も、これが決定的なルーヴル訪問である、と言っているわけではなく、ありうべきいくつかの可能性(潜在性と言ってもいい)のうちの一つ(あるいは二つ)を提示しているだけだ。この映画が双子のように瓜二つのヴァージョン違いの二つの映画から構成されているのもそのためである。あくまでもこの映画は多様性の側に開かれている。あるいはこうも言えるかもしれない。ここでのストローブ=ユイレは晩年の小津安二郎のように映画と戯れているのだ、と。またうっかりしているとつい見過ごされてしまうが、この映画は単にルーヴル美術館を訪問して撮られただけの映画ではない。例えば、アングルの『泉』やクールベの『オルナンの埋葬』といった作品はオルセー美術館に、ダヴィッドの『マラーの死』はブリュッセルの王立美術館に所蔵されているといったことからも分かるように、ガスケの『セザンヌ』を原作にしたこの映画に出てくる「ルーヴル美術館」とは今現在、パリに実在するそれではなく、この映画の時空間の中にしか存在しない「想像の美術館」としてのルーヴルである。別々の場所に存在する事物を編集によって同じ時空間に何喰わぬ顔で存在させてしまう、ここでのストローブ=ユイレ鈴木清順のように人を喰っている。またヴェロネーゼからクールベに到るセザンヌの絵画史を彼らは両者に共通する一つのイメージをもって一気に通底させてしまう。そのイメージとは「犬」である。そこに彼らなりのちょっとしたユーモアを感じとることができるだろう。ヴェロネーゼの『カナの婚礼』では、細部のクローズアップにわざわざ犬が入るようにフレーミングし(この絵が提示される時に出てくる二箇所のクローズアップは有名な細部だが、それを拡大した図版などでは通常、犬はフレームから排除されている)、クールベの『オルナンの埋葬』では、セザンヌにわざわざ「この犬を見てみなさいよ…ベラスケス!ベラスケス!フェリーペ王の犬は、いかに国王の犬であっても、これほど犬らしくないよ」と叫ばせて、この絵の犬に注意を促している(言うまでもなく、ここで参照されているベラスケスの作品は『ラス・メニーナス』である)。ところでこの作品で言及される画家たちを見てみると、ヴェロネーゼを初めとするイタリアの偉大な画家たちを除くと、ここでのセザンヌ(あるいはストローブ=ユイレ)が、ドラクロワクールベの側に立って、アングルとダヴィッドを叩くという構図が見てとれる。ガスケ(ストローブ自身が演じている)が「クールベは民衆の大画家ですね」と言うや、すかさず「自然の大画家でもあるよ」と答えるセザンヌのやり取りを聞いていると、ほとんどストローブ=ユイレクールベに自分たちをなぞらえていると言っても過言ではない。すでに『セザンヌ』で「光が、大地や太陽光線の物語が誰に描けるのか…?誰に描写できるのか?」とのセザンヌの問いかけに対し、「ここに、それをなし遂げた者がいます」と言わんばかりに、自分たちの『エンペドクレスの死』の抜粋を、それが『ボヴァリー夫人』(ルノワール)に比肩する作品だとの自負をもって提示してみせた彼らゆえ、この作品でもやはり『労働者たち、農民たち』からの抜粋である素晴らしい森のパン・ショットを堂々と提示してこの映画を締めくくってみせるのだ。*1最後に一つ。この映画の一番始めにストローブの手書きの字で「この映画を1990年に作るようにそそのかしたのはルーヴルのドミニク・パイーニである」という字幕が出てくるのだが、これはもちろん彼らの冗談であって本当は「シネマテーク・フランセーズのドミニク・パイーニ」である。しかしこの映画や『セザンヌ』が絵画論であると同時に映画論であったように、そしてストローブ=ユイレがこの映画でクールベに自身をなぞらえているように、この冗談は単なる冗談ではない。ラスト近くで打ち震える声で読み上げられる「ルーヴルにすぐにでも火をつけたらいい…美しいものがこわいというんならね」という凶暴な台詞は、「映画は商品だ、映画を燃やすべきだ(ただし内なる炎で)」とアンリ・ラングロワに言ったという『映画史』のゴダールの言葉と深く共鳴しあっている。
ラス・メニーナス』(ベラスケス) http://www.wga.hu/html/v/velazque/1651-60/08menina.html

*1:このパン・ショットは『労働者たち、農民たち』からの抜粋ではなく、同じ場所で撮られた別テイクなのではないかと、小出君から指摘あり。確かに『労働者たち、農民たち』の時の画面は広角レンズで撮られていて、もっと空間が歪んでいるように思える。今回のは標準レンズで撮られているはず。