『吉野葛』あるいはバスター・キートン的政治映画

盟友の堀禎一氏が一年ほど前に送ってくれた未発表の『吉野葛』評を祝公開ということで期間限定でお蔵出し。

吉野葛バスター・キートン的政治映画

 『吉野葛』はまるでバスター・キートンの映画のようだ。もちろんこの作品が優れた喜劇であるという意味においてもそうなのだが、歴史的にも文化的にも物語的にも豊穣な吉野という地に降り立った葛生賢という映画作家が、豪奢で広大なセットを建造しながらも、その豪奢さや広大さを観客を陶酔させる装置として利用するのではなく、逆にどちらかと言えば自ら演じる主人公を不自由にするための仕掛けとして莫大な予算をつぎ込みながら、映画を撮り続けたバスター・キートンと重なったからだ。
 それにキートンが自ら建てたセットに常に脅やかされているように、葛生賢は自ら作り上げた「吉野」に脅やかされているように見える。自ら作り上げてしまった怪物に脅かされることで、自らを畏れることがいかに困難で重要で豊かな作業であるのかを彼らは語っているように見える。
 キートンが突然怪物に襲われて、時にはセットを破壊しながら困難な逃走(闘争)を開始するように、葛生賢はドイツ・イデオロギーなる得体の知れない書物を取り出し、彼のせっかく作り上げた「吉野」を破壊しながらその怪物から逃走(闘争)する。
 やがて彼らを襲う事になる怪物を夢見ながら、自らを畏れている彼らの様子は果てしなく美しく、そして自ら作り上げた怪物から、その美しさに耐え切れず突然逃げ出し、そのうち格闘しはじめる彼らの姿は果てしなく可笑しい。
 それは夢を見ている子供が夢にうなされて飛び起き、「あっ、ゆめか!」と叫んで、そしていつしかまた別の夢に戻ってゆく姿と似ている。それは果てしなく生きていることに近いように僕には思われる。

堀 禎一