マンディンゴ

a)『マンディンゴ』(リチャード・フライシャー

a)「マンディンゴ」とは、純血の黒人奴隷(男性)を指す言葉らしい。このタイトルが予告するように、この映画の主題は「血」の問題である。すなわち、純血/混血、白人/黒人の間のあらゆる順列組合せがこの作品では扱われる。
南北戦争前の南部のプランテーションの館の主ジェームズ・メイスンは一人息子ハモンドを早く結婚させ、子孫を絶やさないようにしようとしている。しかし当の本人は館の黒人娘と性交するのが好みで、あまり白人娘との結婚には乗り気ではない。またメイスンは、奴隷売買も手掛けており、その商売のために純血種の逞しい黒人奴隷を手に入れたがっている。一家はメイスンと息子の父子家庭であり、この二人の白人男性の他は大勢の黒人奴隷の男女が館の内外で彼らに仕えている。
冒頭が黒人奴隷の売買のシーンで始まっていることから明らかなように、彼らは魂を持たない「商品」として扱われている。そしてこの交換価値に労働や性交などの使用価値が附随する。この作品においては、黒人奴隷の使用価値としての側面は主に二つのタイプのシーンによって表現されている。つまり奴隷同士の格闘シーンと白人男性と黒人女性とのセックス・シーンである。そしてフライシャーが力点を置いているのは、性の問題、あるいはレヴィ=ストロース的な意味での「女性の交換」の問題である。中世ヨーロッパの封建領主であるかのごとく、この閉ざされた世界では、黒人娘の処女を奪う権利は館の主人が持っている(ただし、この物語でのメイスンは老境にあり、この権利をもっぱら行使するのは一人息子の方である)。そして、黒人女性は性的な側面において白人男性から黒人男性に譲渡され、それはこの共同体の絶対的なコードとして存在している(この流れはあくまで一方向的である)。またこれと対になって共同体を維持するコードとして、白人男性から白人男性への白人女性の譲渡がある。主人公ハモンドの妻ブランチはそのようにして、彼の許へ嫁いでくる。ただし、譲渡する白人男性というのはふつう譲渡される女性の父親で、ここでの「譲渡」というのは象徴的な意味で解されるのが通常なのだが、この物語の悲劇は文字通りそれが「譲渡」された、つまり彼女は少女時代にいとこ(ハモンドの親友)に処女を奪われていて、しかもそのことを偽って嫁いできたことに存している。ハモンドはハネムーンの帰りに、ある種の恋愛感情を抱いていた黒人女性エリス(彼が接待を受けた館で黒人奴隷として仕えていて、彼によって処女を奪われる)と「マンデインゴ」を購入して館に帰還する。物語の後半はこの四人の関係を軸に進展する。
ハモンドは妻に愛情を注がず、エリスの寝室に入り浸りとなる。フライシャーは、それぞれの出会いの場面において、視線の高低の繊細な演出によって、この悲劇を予告しているのだが、ここでその二つのシーンを簡単に振り返ってみよう。まずハモンドがエリスと初めてくちづけを交わし、夜を共にする場面から。ここでハモンドと親友(ブランチのいとこ)は、訪問した館で二人の黒人女性をあてがわれ、どちらを選ぶかで二人の男性の間でちょっとしたやりとりがまずある。ここで親友はエリスの処女を面倒がって、彼女をハモンドに譲る(ここで意図せずして、彼が処女を奪ったブランチがハモンドの妻になることの贖罪を予めしているかのような状況が生じていることは興味深い)。二人っきりになったハモンドとエリスは部屋に入り、ベッドに腰掛けたハモンドとその側に立ったエリスの間で会話が交わされた後、その姿勢で二人はキスをして、それから二人ともベッドに倒れ込む。このシーンの初めにおいてハモンドの視線の位置はエリスのそれよりも上に位置していたのだが、彼がベッドに腰掛けることで、彼女を見上げるような具合になり(しかもここで二人の切り返しショットで会話がなされるので、それが強調されている)、二人の視線の上下が逆転している。次にハモンドとブランチの最初のキス・シーンを見てみよう。舞台は、ブランチの実家のベランダから階段を降りると花畑があるという空間構造になっている。先にベランダに出たハモンドを追ってブランチがやってくる。二人がこのシーンにおいて会話を始める時、二人は階段にいて、ハモンドの方が下に位置し、彼女を見上げるかたちになっている。キャメラはそのまま花畑に降りて会話を交わす二人を移動撮影で収めているので、自然と背の高いハモンドの視線の方が彼女よりも高くなり、二人の位置関係は逆転する(しかも、ここでもまたそれを強調するかのように、キスの前の立ち止まった二人の会話は切り返しショットで捉えられている)。このように、対応する二つの場面はちょうど「逆転写」されたかのような画面構成になっており、それはそのままハモンドの二人の女性に対するその後の扱い方に反映している。あまりに何気ないシーンなので、つい見逃してしまいそうになるが、こうしたことをサラリとなってのけるフライシャーの演出は見事なものである。
さて物語の後半、奇しくも同じ馬車(前列の座席に白人夫婦、後ろの荷台に黒人奴隷の男女)で館に戻ってきた四人の運命はどうなったのだろうか。白人男性と白人女性、白人男性と黒人女性、黒人男性と黒人女性というカップルがすでに存在する以上、試されていないのは、黒人男性と白人女性という組合せだけである。しかしこの組合せは、この閉ざされた共同体を維持する掟にとっての侵犯行為であり、タブーとされているのだが、夫に相手にされないブランチは、彼への(あるいはこの社会への)復讐としてあえてこのタブーを踏みにじり、「マンディンゴ」を一度ならず自分の寝室に引き入れるだろう(ここでの二人のセックスは正常位を真俯瞰から捉えた画面で示されるのだが、この黒人男性と白人女性の直接的なセックス描写は今なお衝撃的である。思えばベルトルッチの『シェルタリング・スカイ』で黒人男性とデブラ・ウィンガーの同じ位あからさまな−しかもそこでは足元側の斜めの軸から、結合する二人の性器が見えるような位置で撮影されていた− 画面−幸いボカシが入っていたけれども−を見た時にも同じようなショックを受けたものだが、それは自分では意識していない人種的偏見によるものなのだろうか)。そしてその侵犯行為の代償として彼女は黒い肌の赤ん坊を産み、母子ともども殺されるはめになる。一方、「マンディンゴ」も裁きを受けるのだが、それを見兼ねた黒人執事がハモンドの手からライフルを奪い、その銃弾がメイスンに当たってしまう。
ところで、なぜ悲劇は起きてしまったのだろう。もちろんそれが嫉妬の帰結であることは確かなのだが、それ以上にそれは、あくまで交換可能な項に過ぎなかった黒人奴隷をハモンドが交換不可能な単独者として愛してしまった(エリスに対する愛情だけでなく、「マンディンゴ」に対する愛着−いくら積まれてもハモンドは彼を売ろうとはしない−についても言える)がために、共同体における交換のコードの流れをせき止めてしまったことに対する罰のようにもみえる。結果、それはこの世界の「法」の体現者であったメイスンの死を招きよせてしまったのである。そして「法」の消えた世界から彼らは旅立っていくだろう
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