デブラ・ウィンガーを探して/アダプテーション

a)『デブラ・ウィンガーを探して』(ロザンナ・アークェット)
b)『アダプテーション』(スパイク・ジョーンズ

a)ジル・ドゥルーズの『ベルクソンの哲学』によれば、「問題」には「真の問題」と「偽の問題」があって、前者は問いを立てることそのものが解を導き出すのに対して、後者は問いの立て方が間違っているためにアポリアに陥るということである。
なぜそんなことを思い出したかというと、この作品に出てくる「仕事か家庭(あるいは恋愛)か」(この作品ではその「仕事」が「ハリウッド女優」という点がやや特殊なのだが)という、よく女性雑誌の広告などで見かけるような、「働く女性」にとっての「永遠のテーマ」が、実は「偽の問題」なのではないかとふと思ったからだ。二者択一の形で提出されるからには、問いを立てている当事者たちにとっては、同等のものと考えられているのかもしれないが、この二つは断じてそのような対称性を持ってはいないし、一方を選択すれば他方は解消されるというものでもない。両者ともにわれわれが生きていく上で避けることのできない事柄であり、生きるというのはその不条理を引き受けていくことに他ならない。
この作品で立てられた問いが偽りのものである以上、作品そのものも決して解に辿り着くことはありえないはずなのだが、この作品はあたかもデブラ・ウィンガーに出会うことである種の啓示を受けるという欺瞞に満ちたものになっており、ロザンナ・アークェットの問いが中途半端であるのと同様に、作品自体も中途半端なものになっている。ただ、シャロン・ストーンジュリアン・ムーアケイト・ブランシェットに対して自らの敗北を認めていたのは興味深かった。
もしこの映画を見て共感を覚えたりする女性がいたとしたら、それは自分自身に対する侮辱であることを自覚すべきだ。

b)去年の暮れに、スパイク・ジョーンズソフィア・コッポラと別れたことを最近まで知らなかった。ソフィア・コッポラの方が遥かに映画的なセンスに恵まれているため、何でこの男と結婚したのかと常々疑問に思っていたのだが、理由はともあれ別れて正解。
とここまで読んできた方ならお察しのように、スパイク・ジョーンズにはあまりよい印象を持っていない。彼は映画よりはミュージック・クリップの方に才能を発揮できる人だろう。実際、ケミカル・ブラザーズの女子新体操のクリップやファットボーイ・スリムクリストファー・ウォーケンが無人の豪華なホテルで踊り狂うクリップはとても素晴らしい(ただし、彼を有名にしたビースティー・ボーイズの一連のクリップは過大評価されている)。なので世間で評判になった『マルコヴィッチの穴』にしても、アイデアは悪くないが、映画としては大した作品だとも思わない(ところどころ面白いところはあるが)。
でこの作品なのだが、実はそんなに悪くはない。これは一人二役を演じたニコラス・ケイジを初めとする役者の力によるところが大きい。また脚本もクリシェによってクリシェを批評するというか、メリル・ストリープの役柄が本当に悪意を持って描かれていて、しかもポルノ画像に彼女の顔を合成したものまで出てきたのにはびっくりで、よく彼女が承諾したものだというか、彼女はどういう思いでこの役柄を演じていたのか。ただ話の落とし所が弱い。
余談だが、ダイナーのウェイトレスを演じるジュディ・グリアがとても魅力的。調べたら彼女、『ハート・オブ・ウーマン』に出ていたんですね。なお、ニコラス・ケイジの妄想の中で美しいが小柄な胸を曝け出しているのが痛々しい。
早くソフィア・コッポラの新作『ロスト・イン・トランスレーション』が見たい。