国家と革命

a)『国民の創生』(D.W.グリフィス)
b)『帰郷』(ヨーエ・マイ)
c)『レボルシオン 革命の物語』(トマス・グティエレス・アレア
a) 原題は"The Birth of a Nation"、つまり「ネーション」の誕生についての物語である。ここで言う「ネーション」とはもちろん、資本主義の発展によって引き起こされた階級対立を想像的な相互扶助共同体によって乗り越えようとするものである。そしてこれ以降、様々な国でつくられることになる「ネーション」の誕生についての物語は、この映画の変奏である。『ラ・マルセイエーズ』(ジャン・ルノワール)、『十月』(セルゲイ・エイゼンシュテイン)、『イタリア万歳』(ロベルト・ロッセリーニ)…あるいはレニ・リーフェンシュタールの一連のナチ・プロパガンダ映画はこれの陰画と言えるかもしれない。
ところが日本では「国民の創生」に相当するものが撮られなかったのは何故だろう。小津安二郎溝口健二成瀬巳喜男マキノ雅弘も、はたまた黒澤明もこれを撮らなかった。これは一体、何を意味するのか。おそらくそうした物語を語ることは必然的に近代天皇制というタブーに抵触するためである。そして日本には、天皇の映像はあっても、自らについての映像はない。
ところでかつてジャン=リュック・ゴダールモザンビークで「国民の創生」を撮る企画を考えていたが、それを撮らずに『映画史』を撮ったことはとても興味深い問題である。
ちなみに淀川さんによるこの作品の解説はこちら。かなりスゴイです。
b) おでこを隠したディタ・パルロが見れる貴重な映画。濃いアイシャドウをして前髪を垂らした彼女は、『アタラント号』(ジャン・ヴィゴ)や『大いなる幻影』(ジャン・ルノワール)で私たちが知っている彼女のイメージとずいぶん落差があって驚かされる。
c) 革命に成功し自らについての映像を手に入れることのできた国のもう一つの「国民の創生」。だが他の「国民の創生」とこの作品との決定的な違いは、歴史上の固有名が登場しないことである。カストロもチェ・ゲバラも出て来ないキューバ革命史。しかもここで描かれていることは、これが撮られる数年前に起こったばかりの出来事である。その意味で『戦火のかなた』(ロベルト・ロッセリーニ)のキャメラマン、オテロ・マルテッリを起用したことは決定的に正しい。例えば警官たちに運び出され、街路樹の根元に無造作に捨て置かれる死体の即物的な描写、あるいは政府軍とゲリラの戦闘がいきなり始まる山道のシーン。また重傷を負った仲間を囲んでゲリラたちが山中で過ごす待機の時間。この三話構成の映画において、第三話だけは別のキャメラマン(セルヒオ・ベハル)が担当しているが、実は最も魅力的な戦闘シーンが見られるのはここである。政府軍の軍用列車を捕獲するためにゲリラたちはどうするか。『リオ・ロボ』のハワード・ホークスであれば奇想天外な装置でそれを「生け捕り」にするところだが、こちらは「実録もの」なので、あくまでリアルな細部の描写を積み重ねていくのだが、それがまた何とも魅力的である。線路を破壊するブルドーザー、次々と投げ込まれる火炎瓶、倒れた死体に銃弾が当たって染み出す血。実際、映画の中で火炎瓶がこれほど美しく燃え上がるのを見たのは『パルチザン前史』(土本典昭)以来である。またかつて金井美恵子がいみじくもロッセリーニの作品を「屋根の映画」と指摘したように、この作品でも魅力的な屋根がいくつも出てくる。思えばジャック・リヴェットの『パリはわれらのもの』から『恋ごころ』に到るまで登場する屋根はルイ・フィヤードの記憶に繋がるものである以上に、ロッセリーニとの血縁関係を証し立てるものだったのではないだろうか。ちなみに現在のキューバがこの映画で描かれている革命の理念を裏切る軍事独裁国家に堕してしまったとしても、そのことはこの作品の価値をいささかも減じるものではない。大傑作。

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