映画美学校映画祭速報その4

本日(9/12)はドキュメンタリー部門である。前夜、『う・み・め』の上映終了後、居酒屋で友人たちと朝までコースとなり、しかも皆と別れた後、『ソドムの市』(高橋洋)の主演男優の家に行き、ひさびさに差しで、映画祭で見た作品について意見を交わし、帰宅して入浴・食事後すぐさま再び京橋に向ったので、一睡もせずに作品を見ることに(バカ)。このような次第なので、特に長い作品では時折、上映中、意識を失っていた瞬間があることをお断りしておく。ただし、そうでなかったとしてもあまり評価は変わらないと思う。
『映画ごっこ〜山崎幹夫、そして8ミリ』★
『再生』●
『鎌倉日記2003』●
チーズとうじ虫』★
『世界の中心で、愛をさけブー』●
『家』★★
『ジャスミン・ウェディング』★
『カメラと女』★
『映画ごっこ』はインタビュー相手に「どうもありがとうございました」といって話を切り上げるタイミングが単純に早過ぎるように思えた。もっと対象に食らいついて、言葉を引き出したほうが、作品が豊かになると思うのだが。予定調和的なナレーションも不満。ただし悪くない。『再生』は風景論をやるにしては戦略があまりにもなさすぎる。編集のずさんさ、個々のショットの短さも問題。『鎌倉日記2003』は「小津安二郎」という映画におけるクリティカル・ポイントをただただずさんな撮影・編集で纏めあげてしまった。これほど小津から遠いものもあるまい(もっとも近ければよいというものでもない)。『世界の中心で、愛をさけブー』は、「セカチュー」的ファシズムに対する有効な批判たりえていない。『ジャスミン・ウェディング』はインド女性が突然唄い出すところは悪くないと思った。『チーズとうじ虫』は本日の問題作である。果してこの作品は、葬儀の場面でキャメラに向けられた祖母のまなざしに対する応答たりえているだろうか。撮ることの倫理抜きに技術的達成だけを論じても意味がない。『家』は悪くない。何よりフィックスを撮る時の覚悟の決め方が潔い。これからも頑張ってほしい。『カメラと女』は対象との関係性が変化していく中盤以降は悪くないものの、前半の自意識過剰ぶりにはひたすらうんざりした。
さて以上で今年の映画美学校映画祭のプログラムは終了である。結局、今年は全作品見てしまい、非常に疲れた。来年は途中退席する権利を行使しようと思う。しかし当初のこちらの予測を遥かに超えて、力作ばかりだったのには正直驚いた。来年が楽しみである。運営に関する疑問が一点。ドキュメンタリー・プログラムの最後にドキュメンタリー作品のための「講評」なるものが設けられていたが、私は本映画祭を抑圧からの解放の場として考えているなので、こういう形で抑圧を再導入するのは、出品者たちが自ら去勢を望んでいるようで承服しかねる。講師たちに聞きたいことがあれば、酒の場で個人的に尋ねるなりすればいいだけの話だと思うのだが、どうだろうか。

(追記)ドキュメンタリー科の作品を見るたびにいつも思うのだが、ショットをおろそかにしている人があまりにも多い。ショットは映画のいのちである。何を撮るかももちろん大事だが、それをどう撮ればいいのかについてもよく考えてもらいたい。今年の作品で言えば、『家』の相対的な優位はこの作家が「まともに映画を見ている」からである。映画を見ずに映画が撮れると思うのは単なる思い上がりである。最低限、リュミエール兄弟ロバート・フラハティジャン・ルーシュロバート・クレーマーフレデリック・ワイズマン亀井文夫小川紳介土本典昭らの諸作品を研究した上で制作にとりかかってもらいたい(もちろんこうしたドキュメンタリー作家に限らず、ムルナウ、フォード、ホークス、ヒッチコックロッセリーニルノワール、ドライヤー、ブレッソンゴダールストローブ=ユイレ、小津、溝口といったあたりまで見てもらえれば申し分ない)。まともに映画をみていない人間にまともな映画が撮れるわけがない。