女のみづうみ

hj3s-kzu2004-09-25

a)『わるい仲間』(ジャン・ユスターシュ
b)『サンタクロースの眼は青い』(ジャン・ユスターシュ
c)『アンジェル』(マルセル・パニョル
d)『女のみづうみ』(吉田喜重
d) アントニオーニが撮ったヒッチコック映画、仮にそんなものがあるとしたらこのような映画だろう。ただしこれは最大級の賛辞である。もちろんここで言うアントニオーニとは、『欲望』や『砂丘』の作家ではなく、『ある愛の記録』や『夜』の作家である。美しく裕福な人妻(岡田茉莉子)のハンドバッグがある夜、何者かの手に渡る。その中には浮気の決定的な証拠となるはずの、愛人が戯れに撮影した彼女のヌード写真のネガが入っていたのだ。彼女は見知らぬ脅迫者の指示に従って、寂れた海辺の町に向かうのだった…この映画における岡田茉莉子の美しさはただごとではない。吉田=岡田コンビによる作品系列にあっても最高峰の一つではないだろうか。ハイ・コントラストの画面設計によって彼女の美しさ(特にその横顔)を際だたせているのが、前作『水で書かれた物語』と同様、撮影の鈴木達夫と照明の海野義雄のコンビである。実際、この映画における画面の充実度は圧倒的だ。そしてその中心に岡田茉莉子がいる。シャブロル=オードランのコンビに対する吉田喜重の遙かな優位は彼女の存在によるものである。『不貞の女』(シャブロル)ですら、この映画の前では色褪せて見える。デ・パルマにいたっては言うまでもない。ヒッチコックの後にサスペンス映画を撮るという野望に成功したのは、ことによったら吉田喜重ただ一人かもしれない、そんな気さえしてくる。彼がそのことに成功したのは、ヒッチコック的な主題を一見それとは無縁なアントニオーニ的な風土に移し替えることによってである。それにより、文字通り「宙吊り」の時空が現出する。空虚な空間、それは吉田喜重とも縁の深い小津安二郎の映画の中にすでに萌芽の形で胚胎し、戦後映画(ネオリアリスモ、ヌーヴェル・ヴァーグ)によって顕在化したものだが、この作品においての彼は鏡や日傘といった通常、彼の作品を特徴づけるとみなされる記号によってその空間を閉じてしまうのではなく、それらを捨て去って新たに「分身」をこの開放的な空間のここかしこに配置することでさらにこの空間を不透明なものにしている。唯一、岡田茉莉子芦田伸介の夫婦の寝室に三面鏡が登場するが、そこに映っているのが、前に座っている岡田茉莉子ではなく、その背後に横たわっている芦田伸介の左右対称的な二つの像であることはいかにも示唆的である。「分身」は物語の要所要所に姿を見せる。脱線事故のために足止めを食らった夜の寂しい地方の駅のプラットフォームで(この場面は本当に素晴らしい)、田舎町の写真店のヌードスタジオで、あるいは海辺の戯画化された(なにしろ演出家がバラを一輪、手に持ちながら指示を出しているのだ)ピンク映画(?)の撮影隊の中に。それらは鏡像として内省を強いるというよりは、ヒロインの情動にじかに働きかけ、その行動を方向づけるものである。言い換えれば、題名に含まれる「みづうみ」のような鏡面として機能する穏やかな表面ではなく、廃船を破砕する波のような力としてそれらはあるのだ。それにしても岡田茉莉子の歩く姿は何と美しいのだろう。そしてその彼女が走行する列車の最後尾まで引き寄せられていくとき、私たちが目にし、耳にするのは、やはり小津の『お茶漬の味』の展望車によって素描されていた過剰なまでの音響であり光であり運動である。大傑作。
吉田喜重 変貌の倫理@ポレポレ東中野
http://www.mmjp.or.jp/pole2/yosidakijyutime.htm