ボニゼールとことんシナリオを語る その7(最終回)

a)『有頂天時代』(ジョージ・スティーヴンス)★★★
b)『ブロンドの殺人者』(エドワード・ドミトリク)★★★
c)『市民ケーン』(オーソン・ウェルズ)★★★★


(昨日の続き)
7.終えること
 私は、あるテクストをいかにして終えるのか決して分かったことがない、そして、私がシナリオに着手するとき、それがいかに終わるのかあまりに知らないことがままある。だが、それは間違いである。
 第一に、終わりは私たちが語る物語によってあらかじめ決っていることがよくあるため、始める前に終わりを知っていることが望ましいが、それは終わりを失敗させたり、逸脱させたり、妨害したりする可能性が与えられるからだけではないだろう。
 物語が一つの終わりを持たなければならないことは構造の必然である。しかしながら、その結果、終わりが全く作為的なことがあまりによくある。
 しかし終わりは避けられない─つまり、そのようなものとして終わりを示さなければならない─なぜなら、少なくとも外見上、それは、それ以前に起こったもの全ての意味を与えるからである。それはまた、観客の感動を頂点にまでもたらすことを機能としている。

 映画史全体の中で、その言葉のあらゆる意味において、最も素晴しい(=信じられない=非凡な)〔extraordinaire〕終わりはドライヤーの『奇跡』の終わりである、なぜならそれは文字通りありえないことであり、同時にその映画全体はそれをもたらし、それを現実的で、効果的で、輝かしく、反論の余地のないものにする以外の目的を持たないからである。『奇跡』の終わりは、登場人物たちの信仰(人生における信仰)と観客の信仰(映画における信仰)がその強度の絶頂で正確に合致する恍惚の瞬間である。
 私たちは、劇的緊張の頂点、地獄の機械の爆発である「クライマックス」と、古典的な再調整、すなわち、秩序あるいは自然への回帰である「結末」を混同しない。*1例えば『奇跡』では、クライマックスは死んだ女性の復活であるが、結末は彼女が「生き返ったのね・・・生き返ったのね・・・」とつぶやきながら、動転している夫の腕に身をゆだねる最後のショットである。
 すでに引用した『裏窓』では、クライマックスは、殺人者がジェームズ・スチュアートを窓から突き落とす瞬間であり、そして結末は、周囲の気温が再び下がったことを表わしている温度計によって文字通り示され、主筋に対位法的に平行した物語の脇役それぞれに与えられた「小結末」によって実に見事に述べられた常態への回帰である。(「ミス・ロンリー・ハート」は呪われたピアニストの人となりの中にパートナーを見出し、「ミス・トルソー」は婚約者の兵卒に再会する、等々)。『北北西に進路を取れ』では、クライマックスと結末は文字通りオーバーラップされている。ケイリー・グラントとエヴァ・マリー・セイントは、落下の瀬戸際でしがみついていたラシュモア山の断崖から、彼らが新婚初夜を過ごそうとしている寝台車の高級簡易ベットへと移行する。
 より現代的なスタイルで、いわばあまり息切れしていないテンポの物語では、クライマックスと結末というこの二重の句読法はそれほど頻繁には見出されない。アントニオーニの『夜』のような「無調的」な外観の映画では、クライマックスは、ジャンヌ・モローがマストロヤンニに、彼は覚えていないが、昔、彼が彼女に宛てたラブレターを読む、彼らの愛が終わったことを証拠立てる最後のシーンに位置づけられる。そして結末はそのすぐ後の、彼がこの絶望的な証拠を打ち消すために必死に彼女を抱きしめる時に位置づけられる。
 この場合においてもまだ、物語全体─物語の不在に姿を消しかけている物語─を決定するのは映画の終わりである、さもなければその小休止、エピソードはひとつも意味を成さなくなるだろう。

 ジョヴァンニ「誰の手紙だ」
  沈黙。それからジョヴァンニをじっと見つめながら、リンダが言う。
 リンダ「あなたのよ」
  彼女がむき出しにしたばかりの真実─愛はもはや存在しない─に茫然として、ジョヴァンニは黙り込み、リンダを見つめる。
  リンダは見つめられるがままとなる。彼女はあまりに深く動揺しているので、とても年老いたようにみえる。突然、ジョヴァンニは彼女を彼の側に引き寄せ、必死に彼女を抱きしめようとする。
 リンダ「いや、いや、私はもう愛してない、愛してなどいないわ。あなたも私を愛してない」
 ジョヴァンニ「黙って、黙ってくれ」
 リンダ「愛してないと言って」
 ジョヴァンニ「いや、言うものか」
  そしてリンダは抱きしめられるがままとなる、その時大粒の涙が彼女の頬を濡らす。ジョヴァンニはその涙を吸い、彼女を草の上に倒す。彼は彼女の上に横たわり、彼女を抱きしめ、彼は彼女を見分けるためであるかのように、彼女の顔や首を愛撫する。
  リンダは目を閉じ、奪われるがままとなる。動物的な興奮のようなもの、すなわち、かつて彼らを熱狂させ、そうさせえたものの記憶。
  そしてジョヴァンニとリンダが交し合った口づけはこの希望を洩している。*2

 このような終わりが示しているものは、あらゆる映画において、終わりは、物語全体がそこに要約されるようなひとつの「言葉」の価値─人は無意味に「最後の言葉」〔締めくくりのひと言〕を話さない─を持つ。ここでは、終わりの美しさは、疲れ切った主役たちの、言葉には表わせない、彼らの抱擁と口づけによって低く輪郭づけられ、身振りで示され、素描された大変な努力によって、この言葉がそう呼ばれるところのものから生じる。
 時には「最後の言葉」はより謎めいている。それは、判じ絵におけるような突飛な映像によってほのめかされる。そのようにブニュエルはするが、彼の映画はしばしば、その登場人物たちがその変幻自在の形象を追い詰めたところの、いわばこの「欲望のあいまいな対象」を最後にもう一度提示するあいまいな映像によって終わる。
 だが、もし終わりがうまくいくことが重要であるならば、それは、観客が切りとり、映画館から出るときに持ち帰るのがこの映画の断片だからである。すなわち、彼らが映画から「理解し」、一つか二つのシーンとともに、失敗と成功を左右するように思われる口コミを生むもの。
 良くても悪くても、「ハッピー」でも「悲観的」でも、開いていても閉じていても、終わりは「反論できない」ようにしなくてはならない。それは毎日起こりはしない。
(おわり)

*1:Cf.Michel Chion,op.cit.,pp.140-155.

*2:La Nuit de Michelangelo Antonioni,Buchet-Chastel,p.85.