ボニゼールとことんシナリオを語る その5

a)『踊らん哉』(マーク・サンドリッチ)★★★★


(昨日の続き)
5.登場人物と出来事
 語ることと殺すこと、語ることと死ぬこととはしばしば関係が深いように思われる。なぜ、シェヘラザード姫〔『千夜一夜物語』の語り手〕は千と一夜の物語を彼女の死と交換するのだろう。おそらくそれは死が物語の終わりを意味するからであるが(なぜなら物語と人生との間には等価性があるから)、だがそれはまた、語ることが同時に殺すことであり、死を打ち破ること、すなわち物語が彼の気にいるのを止めた時、あなたを殺すに違いない人を殺すこと、いっぺんに全てを知りたがり、時間に耐えることのできない、非生産的で、忍耐心のない、遊び好きの─悪い遊び人の─子供を殺すこと、語り手がかつてそうであり、語ることで─なぜなら語ることはまた知恵をもたらすから─彼がもはやそうではなくなったこの子供を殺すことであるからだ。
 これが『ラスト・エンペラー』の物語であり、もしベルトルッチの映画が、傀儡であった中国の君主の虚しい人生を語りつつ、ある成功を収めたのならば、それは誰もが幼年期には「中国の皇帝」だったからではないだろうか。

 それゆえ語れることはまた年をとれることを意味し、そして語ることはつねに老化を語ることである。『地下鉄のザジ』に、それを活気づけるシャンソニエ〔芸人〕のギャグを超えて、神話的な物語のスタイルをあたえ、ザジの役柄に原型的な広がりをあたえるものは、小説を締めくくる「私は年をとった」という言葉である。
 「私は年をとった」。すなわち「私は生きた」。さらに言い換えれば「私は学んだ」。私たちはこの場合、ザジが学んだものを知ることはないし(彼女は何も、彼女がパリに来た唯一の目的である地下鉄さえも見なかった、というのもそこに連れていかれた時、彼女は眠っていたからである)、おそらく彼女がそれを知るのはずっと後のことか、さもなくば決して知ることはないだろう。『失われた時を求めて』では逆に、語り手は学んだと考え、それを伝えようとし、彼の物語はこの試み以外の何ものでもない。すなわち、彼がかつてそうであった登場人物、すなわち不幸な恋愛(ジルベルト、アルベルチーヌ)とさまざまな苦悩の主体、社交界の陰謀とエロチックな策謀の証人─ひと言でいえば時の主体─と、彼が現在そうであり、この自然のままの経験を形而上学的な出来事に変えるひとつの物語に彼の経験の網目全体を集結させるような作者との間の全ての距離を無限に埋めること。
 そのように語り手は、文学においては、登場人物と作者の中間にある曖昧な形象である。語り手は、他の人物には欠けていて、彼に書くことを可能にさせる知識と知恵を所有しているとみなされているので、他の中心人物の悪習からア・プリオリに部分的に保護された特別の位置を登場人物の資格で偽って彼に与える、この曖昧さをいくつかの物語は利用している。そこに読者の幻想があることは、語り手が当の殺人者であったことが分かるアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』のような小説が証明していることである。
 それは、映画にはめったに関係しない純粋に文学的な技巧であるといえるだろう─例えば、物語の登場人物の一人でもある語り手の「画面外の」声が殺人者を隠し持つオットー・プレミンジャーの『ローラ殺人事件』のように、たとえ、その技巧が模倣され得たとしても。
 したがって語り手の問題は以下のことを参照させる。本質上、作者と、彼が場面に置く登場人物とを区別するものは何か。それは単に前者が現実に存在し、後者が虚構上のものであるということではない。この違いはおそらく重要ではあるが、不十分である。
 登場人物は行動し、苦しみ、徴候をもたらす。作者はこの行動、情念、徴候から「出来事」の価値を引き出そうとする。
 「語ること、それは出来事を発展させることである」。
 シナリオライター、作家が生みだし、叙述する出来事=事件は、マスメディア、新聞、テレビが同じ言葉で呼んでいるものとは無関係である。出来事は事実でもなければ、突発事─事故、大災害、犯罪、殺戮─でもない、それは、起こったり起こらなかったりする、物語と切り離せないものの、表象行為における、つまり意識における、反響である。
 生きること、愛すること、死ぬこと、年をとること、若いこと、病んでいること、喜び、悲しみ、等々、これらの言葉はそれ自体、無意味であるか、一般的、抽象的で色褪せた意味しかもたない。それらが意味、強度、反響をともに得るのは、(主体に対して)それらを現実化する出来事においてである。
 出来事とは何か。チャンドラーは、ヒッチコックのためにちょうど書いていた『見知らぬ乗客』の際にそれを自問した。「もし私が、朝、目覚めると三本の腕がある男の物語を書いたならば、物語は単にこの三番目の腕がその男にもたらす結果を示すだけでしょう。そして私は、発端であるこの腕の存在を正当化する必要はないでしょう。だがここでは、発端は、親切な若い男が、狂人をなだめるために、赤の他人を暗殺するようなある状況のなかにあります。それは結果です。発端は、あなたが狂暴な狂人と握手をすれば、おそらくあなたは魂を悪魔に売渡すことになるということなのです」。*1
 ここで読者は身震いする。というのも、握手をすること、それは誰にでも日常起こることだからである。それは出来事でもなければ、発端でもない。
 物語の発端、それは、握手をしてはいけない人たちがいるということである。
 間違った出会いが─単に─問題なのではない。悪所で道に迷った普通の人が殴り殺されること、帰宅途中の若い女性が不良少年たちに強姦されること、それは物語を生み出すには十分ではない。あるいはまた、『クレールの膝』の冒頭で、ルーマニア人の小説家オーロラが友人のジェロームに言うように、「あなたは結婚の直前に、うぶな子供と寝ることになる。それでも面白い話とは言えないけど」。*2
 物語は、あなたが握手する彼あるいは彼女が、それによって、あなたの最も奥に秘められた思い、最も底に埋められた願望、運命についての選択権を握るときに始まる。
 発端は、うわべだけの礼儀という性質によって毎日の生活に排出され、一般にそれが帯びる重要性を欠いた、握手をすることが、突然、その意味全体を獲得するところにある。それは同盟であり、協定である。というのも、私たちがその意味を考えずに握手をする人たちのなかには、この身振りが彼にとって調印された共犯関係という価値を持つ狂人、あるいは悪魔が突然、見出されるかもしれないからである。
 小説や映画において狂人が特別な重要性をもつのは、この意味においてであり、そのために私たちは彼らをまさに狂人と呼び、彼らを生活のなかで拒絶しようとする。
 映画の登場人物は確かに私たちに似ている、だが、物語が私たちに押し付ける様式化によって彼らもまたしばしばより狂気じみている。彼らがより狂気じみているのは、彼らがより論理的だからである。
 登場人物が狂気じみているのは、ヒッチコックやラングにおいてだけではない。少し掘り下げてみれば、より現実主義的で、より日常に近いことで有名な映画作家の作品にも同じように狂人が見出される。トリュフォーの登場人物はある固定観念に従って行動する。そのことは十分に知られている。だが、再び例にあげると、ロメールにおいてすら、登場人物は倒錯的か、あるいは狂気じみていて、固定観念に駆り立てられている(一般的にそれは「生涯の」結婚をするというものである)。
 それゆえ狂気は、それが身にまとう金メッキのような非常識な言行ではない(それに、狂人を、非常識な言行や突飛さという特色によって描こうとすることは、作家にとって悪しき徴候である)。それは、『美しき結婚』のベアトリス・ロマンのように、日常生活の外見の下に隠れたり、穏やかな決意にちょっと顔を出すような時に興味深いものとなる。
 シナリオライターは別の言い方をすれば、よい臨床医であるよう努めなくてはならない。
 作家、それに特に病的だと考えられているものたち(ルイス・キャロルアルトー、サド、マゾッホ)についてジル・ドゥルーズは記している、「作者たちが偉大であるとすれば、彼らは病人よりもむしろ医者に近いからである。われわれは、彼ら自身が驚くべき診断者、驚くべき徴候学者だと言いたい。徴候の集団化、徴候が他の徴候と区別され、似たものとされ、新しいかたちの障害や病気とされる『図表』のなかには多くの芸術がある。徴候学の図表を作り直すことのできる臨床医は、芸術作品を作っているのである。逆に言えば、芸術家は臨床医である。彼らは自分自身の症例や、一般的な症例についての臨床医なのではなく、文明の臨床医である。(・・・)さらに、徴候の評価は、『小説』を通してのみ行われうるように思われる・・・」。*3
 私たちは実際、神経症患者のコンプレックスを言い表すために、「家族小説」について話す。だが、神経症患者の「家族小説」、性倒錯者の「倒錯的シナリオ」と、芸術作品としての小説やシナリオとの違いは、この「小説」やこの「シナリオ」が、まさにその実行であるがゆえに、性倒錯者や神経症患者は彼らの徴候から彼らの「小説」、彼らの「シナリオ」を引き出すことに成功しないというところにある。反対に、芸術家とは、徴候からそれが表象する出来事を引き出す人のことである。
 「徴候が作用し、実現が決定される物理的表層から、純粋なできごとが素描され、作用する形而上学的表層へと移行すること」、それが芸術作品としての小説やシナリオの目的である、とドゥルーズは言う、そして彼は証拠として次のような例をあげる。「精神科医のCh.ラゼーグは一八七七年に露出症(このことばを作ったのはラゼーグである)を『切り離して』考えた。それに基づいて彼は、臨床医、症候学者としての仕事をした。(・・・)ところが、彼の発見を短い論文のなかで提示するとき、彼は明らかな露出症の症例を引用しない。彼は、或る女性が通るのを毎日待っていて、ひとことも言わず、何の行動もしないままその女性のあとをつけるひとりの男の症例から始めている(『その男の役割は影の機能に限定されている・・・』)。したがってラゼーグは、この男が自分のすべてをペニスに同化させていることを、暗黙のうちに読者に理解させることから始めているのである。そしてそのあとでようやく明白な症例を引用する。ラゼーグの方法は、芸術家の方法である。つまり彼は『小説』から始める。おそらく小説は最初は患者〔主体〕によって書かれる。しかし、それを認識するためには、臨床医=芸術家が必要とされよう。」*4
 「この固有な意味における『小説』は、まさにシナリオライターが行わなくてはならないものである。論理、あるいは力学、例えば露出症のドラマを理解させるために、ラゼーグは最初にある『行動』の謎に読者を導く。」彼はそれを謎めいたものにする。と同時に彼は、自分が謎を見抜き、それを解く鍵を保持し、少なくとも読者にその謎への特権的な接近を許そうとしていることをほのめかす。この男は誰なのか、なぜ彼は、ひとことも言わず、何の行動もしないまま、影のようにこの女性のあとをつけるのか。それはヒッチコック映画の冒頭になりえる。
 映画の観客を惹き付けるために、ア・プリオリに、激しい調子、爆発、流血の惨事、ヘリコプターの墜落で始める必要はない。少し謎めいているだけで十分である。登場人物は行動するが、観客はその行動の意味をすぐには教えられない。
 不思議がらせること。アメリカ人はそれを「フック〔hook〕」*5、釣針、鈎と呼んでいる。すなわち、いかにして、何によって観客をつかむか。
 ジャック・リヴェットの『地に堕ちた愛』は「時として、日曜の夜に・・・」という「カルトン」〔字幕〕で始まる。それから二つの集団が地下鉄の出口で合流するのが見られる。二人の男が彼らを探しにやってきて、彼らをある建物に連れていく・・・。その集団は階段を静かにあがっていく。二人の男のうちの片方がアパルトマンの扉を開き、その集団をなかに入れる・・・。彼らは夫婦喧嘩の真最中に出くわし、彼らが目撃するそれは無言の公衆の面前で演じられる。しかし、そのように私生活を不意うちされたカップル(彼らはそれに気付いているようにはみえない)が口論を繰り広げていくにつれて、いくつかの笑いがほとばしり始める・・・。第三の人物が隣の部屋に隠れ、他の二人の間を往復する、等々。これは一体どういうことなのか。この場面は実際には、数ヵ月前に私が偶然見物した「アパルトマン演劇」の経験を細部にわたって模倣しており、その原理はそれ自体、リヴェットに映画のアイデアを与えた。
 そのようにして私たちは、その冒険が語られようとする登場人物をいわば浮き彫りにする小さな謎によって、物語のなかに入っていく(その口実、きっかけは確かにアパルトマンでのある戯曲の上演であろう)。
 『春のソナタ』の冒頭では、ある若い女性が散らかったアパルトマンに入り、身の回り品をまとめ、そこから出ていき、別の若い女性とその恋人が住んでいるアパルトマンに入り、今度は彼女が出ていくのがみられるが、私たちはこの往来が何を意味しているのか正確に理解することはない。より後の場面で、彼女自身がそれについて説明する(彼女のパートナーが旅行中で、彼が部屋を散らかしたまま発ってしまったので、彼女は居心地が悪くなり、賃貸ししてはいるが彼女が家主であるアパルトマンに、居住者がいないと思って、身を落ち着けようとした、等々)、もし目に見えない観察者がそれを見ていたら─ギゲスの指輪〔はめた人を透明にする魔法の指輪〕へのほのめかし─、おそらくそれを奇妙だと思うだろうということに気づきながら。映画においてはとても珍しいことだが、彼女がやや挑戦的な仕方で語りの方法を強調し、間接的に観客に呼びかけることで、この指摘は、同時に、「おそらくロマンなどどこにもない」にもかかわらず、自分を長編小説〔ロマン〕の登場人物だと考えるという、ロメール的主人公に共通の特色を示している。だからといって、観客が登場人物に関心をもつように、そうする必要は決してない。
 高価であるだけでなく退屈な(すべては私たちが見たがる映画のジャンル次第であるというのは真実である)ヘリコプターの墜落と比べての利点は、それが「日常生活みたい」であることである。私たちは普通、地下鉄やカフェで毎日、互いに話し合ったり、ふくれ面をしたり、無視し合ったりしている姿がみられる人たちが、何をし、どのように生活しているのか、知らない・・・。確かに、ほとんどの場合、私たちはそのことを気にかけたりしない。だが、その行動の意味や論理が私たちの理解を超えているか、ただ単にその習慣(その「生活」)が私たちのものとは同じでないために、その外見や行動が注意を引くような一人、ないし二人組、三人組に、週に一、二度、注目したことのないものがいるだろうか。
 そして映画は部分的にはそのために作られているように見えないだろうか。つまり、私たちとは違った習慣をもつ人たちの生活へ、家宅侵入や罰せられることなしに、私たちを入り込ませるために。民族学における 窃視症の役割と、窃視症における民族学の役割を誰が語るだろうか。
 私は、少しばかりの窃視症がシナリオライターになるための十分条件だなどと、ほのめかしているのではない。それどころか、それは想像力の欠如を示してさえいる。私たちがわずかの間に奇妙な手口を見つけるからといって、私たちが物語のなかに入っていくわけではない。私たちが関心を持つ奇妙な人物が多少ともぼんやりと私たちの注意を引き、彼の側で、私たちに興味をいだき始める時に、私たちはより確実に物語のなかに入っていく。
 そこから恋物語、あるいは恐怖の物語が生まれうる。時には、ブニュエルの『エル』、クリント・イーストウッドの『恐怖のメロディ』、より最近では『危険な情事』のように、両者が一つになっていることもある。
 「他人の性格について知恵を絞るのは危険である」とストリンドベリは記した。*6ストリンドベリベルイマン(周知のように彼から霊感を受けた)のように臨床医であった。「性格」とは何かの例として彼が与えるのは以下のようなものである。「私はある修道女と面識があり、私は彼女をとても高く評価していた、というのも彼女が誠実であることを知っていたからである。だが、私は、彼女が物質的享楽に対して敏感で、酒を少し飲むことを知っていた。そのことに気づいた時、私は彼女を偽善者だと判断したが、しばらく後に、全てが私にとって明らかになった。彼女は享楽的であるがゆえに、修道女なのである。彼女はこちこちの信者を演じているのではない、彼女は悪癖を克服するために、 悔悛しているのだ。私はそこにもう矛盾をみないが、むしろ私は修道女がしばしば罪への傾きを隠さないことを案じる」。*7
 観客には矛盾あるいは不条理として映るものの論理を発見し、この論理を展開し、それを最後まで押し進めること、それは私たちの仕事の本質でさえある。「にもかかわらず」のなかに「のだから」を発見すること(彼女は享楽的である「のだから」彼女は修道女である、であって、彼女は享楽的である「にもかかわらず」、ではない)それはおそらく, 劇作家、シナリオライター、臨床医を観客から区別するものであるが、それはまた、彼らを観客と結びつけるものでもある。「にもかかわらず」の下に隠れている「のだから」を、つまり、定義上、観客が表す急ぎ足で受動的なこの観察者には、一見したところ、ある性格、ある行動の矛盾した非論理的な断片のように見えるものの合理性、動的な統一性を観客に示すことが重要である。そして、ドラマによって、例えば犯罪の物語によって、ストリンドベリによればあらゆる僧侶が隠し持っている「罪への傾き」を引き出しながら、それを観客に示すことが重要である。
 それはおそらく想像力を、だが最初に観察を必要とする。私たちは、登場人物とともに自分の望むことをするのではない。私たちは、どんな冒険であっても彼を巻き込むより他ない。最後に、『クレールの膝』の小説家の言うことに耳を傾けよう、ジェロームは映画の冒頭で彼女に彼の別荘を訪ねさせる。彼は彼女に、サヴォワ占領中に、あるスペイン人の兵士が描いた素朴な絵を見せる。
 「あれは」とジェロームが言う。「木馬に乗ったドン・キホーテさ。自分が空を飛んでるつもりなんだ。目隠しされてるだろ。ふいごが風で、たいまつの火が太陽熱だと錯覚してるんだ」
 「これは寓意画ね」とオーロラは評する。「物語の主人公たちはいつも目隠しされてるの。そうでなければ何もしないし、活動が停止してしまう。この奥には、誰もが目隠しをされているか、あるいは少なくともブリンカー〔馬のよそ見を防ぐ目隠し革〕を付けられてるっていう寓意が込められてるのよ」
 「君は別さ。物書きだから」
 「そうね。小説を書いてるときは、嫌でも目を開けてなきゃならないから」
 「ふいごを操るのか?」
 「違うわ。風を送るのはわたしじゃないの。主人公たちの衝動が風を送るのよ。あるいは、主人公たちの行動理念って言ってもいいけど」
 「でも、君の力も少しは働いてる」
 「わたしは何もしてないわ。観察するだけでいいの。わたしは何ひとつ生み出さないわ。私は発見するの・・・」*8

意味の論理学 (叢書・ウニベルシタス)

意味の論理学 (叢書・ウニベルシタス)

*1:Op.cit.,p.188.

*2:エリック・ロメール、前掲書、一八七頁。「じゃあ、ぼくが寝なかったら?」とジェロームは尋ねる。「もっとましな話しになるわ」このくだりは『六つの本心の話』のシナリオの原理を定義づけている。

*3:ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』、岡田弘・宇波彰訳、法政大学出版局、二九六頁。

*4:同書、四三八頁。

*5:映画的な「フック〔hook〕」とテレビ用の「じらし〔teaser〕」との区別については、cf.Michel Chion,op.cit.,pp.148-149.

*6:August Strindberg,Theatre cruel et theatre mystique, Gallimard, collection《Pratique du theatre》,p.112.

*7:Op.cit.,p.117.

*8:前掲書、一八四頁。