1st Cut ver.2005 Bプログラム

a)『チチカット・フォーリーズ』(フレデリック・ワイズマン)★★★★
b)『巴里の暗黒街』(モーリス・トゥルヌール)★★★★
c)『和紙の音色』(野村英司)
『out of our tree』(中矢名男人)
『水の睡り』(栩兼拓磨)
映画学校のような場で映画を撮る機会を与えられたものがしばしば陥りやすい罠とは、自らの作品を映画に似せようとしてしまうことである。『out of our tree』の美徳とは、決して映画にだけは似るまいという矜持がそこに感じられることだ。なぜなら映画に似るべく撮られたものは、単に映画みたいなものに過ぎず、映画とは似て非なるものだからだ。そして持ち前の聡明さと豊かな映画的体験によって『out of our tree』の作家はそうした罠をすり抜け、逆説的に映画を撮ることに成功している。あるいは彼はこう宣言しているのかもしれない、あなたがたが映画だと思っているものは映画の影に過ぎないのだ、と。しかもこの作家は、二人の「自主映画青年」(≒「バカ」)を主人公に据えるという禁じ手と軽やかに戯れてみせる。『東京戰争戦後秘話』(大島渚)をコメディとしてリメイクしたような趣をもつこの『out of our tree』は、ともすると『発狂する唇』(佐々木浩久)のような悪ふざけと誤解されてしまう危険があるかもしれないが、ああした自堕落さとはきっぱり縁をきっている。むしろ想起すべきは『セリーヌとジュリーは舟でいく』(リヴェット)だろう。リヴェットのヒロインのような幻視の能力を持つ少女が二人組のバカを振り回し、そこに親子心中やら神出鬼没の謎の男が絡むこのコメディの中で、最も奇妙なのは、少女とバカ二人組が、夫を殺した過去を持つ女と、女の幼い子供のビデオ映像をスクリーンに映して一緒に観る場面である。プロジェクターを囲む四人の目の前のスクリーンに投影されているはずの子供の映像はなぜか屈折し、それを見ているはずの彼ら自身の上に投げかけられているのだ。見るものを一瞬、呆然とさせるこの画面には、映画によって映画を思考する試みであるこの作品の野心が垣間見える。そして白いスクリーンは鮮血によって汚されるだろう。どこか大和屋竺的なものへの嗜好を思わせなくもないこのクライマックスから怒濤のようにラストへとなだれ込み、嘘のようなハッピーエンド(チャップリン?)で締めくくってしまうこのケッサクには正直舌をまいた。