ペドロ・コスタとことん語る

hj3s-kzu2004-03-14

(前半戦) ペドロ・コスタ×蓮實重彦トークショー@ABC本店(13:30-15:30)

ヴァンダの部屋』が感動的なのは、これを観る私たちがまさにこの作家の第二の生誕と言うべき瞬間に立ち会っているからだ、と蓮實氏は言う。そしてペドロ・コスタにとってのフォンターイーニャス地区はジョン・フォードにとってのモニュメント・ヴァレーである。フォードがインディアンたちをあたかも自分の息子たちとして引き受けたように、コスタはこの地区の人々を自分の映画に引き受けている。またこの映画はとても「贅沢な」映画だ。それはこの撮影に費やされた二年という歳月からくるものである。ほぼ同時期にやはり二年という時間を費やしてオーストラリアやニュージーランドで作られた大作映画、すなわち『マトリックス』シリーズ(ウォシャウスキー兄弟)や『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズ(ピーター・ジャクソン)に、このDVキャメラで撮られた低予算映画は十分に拮抗している。
この言葉を受け、話題は処女作『血』へと移っていった。コスタは言う。この映画は映画的なアイデンティティーと自伝的要素のモロトフ・カクテル(=火炎瓶)であり、両者が混じりあうことによってこの「死のカクテル」は爆発寸前の緊張度を保っている。映画を撮ることは一種の「復讐」である。先達たち、つまり偉大な映画作家たちは社会に虐げられてきた。自分は彼らに代わってこの世界に復讐したい。そしてもちろん「復讐」とはフリッツ・ラングが好んだテーマである。彼の作品に出てくる登場人物たちは決まって何かに復讐し、そうでなければ作品自体が世界に対する復讐になっている。嘘だと思うなら『激怒』(フリッツ・ラング)を観てみるがいい。これは千回観られるべき映画である。そしてラングの映画のショットとショットの間にはいわばナイフが隠されている、と。これに対し蓮實氏はラングの影響はもちろん感じられるのだが、この作品は『十字路の夜』(ジャン・ルノワール)のようでもあると感想を述べる。コスタが答える。確かにそうかも知れない。ルノワールのこの作品は亡霊が跋扈しているような映画だが、この作品に出てくる秘密警察のような男たちはいわば革命前のポルトガル社会に取り付いた亡霊のような存在で、ここで表現されている不安感は自分が子供の頃に感じていた恐怖に由来している。当時のファシスト政権下の社会では直接弾圧を受けるということはなかったが、人々はソフトな形で洗脳を受けていたようなものだ、そして社会自体が腐敗に満ちていてまるでラングの映画のようだった。そしてまたこの作品は家族の崩壊、すなわち中心からの逃走を扱っている。
『溶岩の家』にはニコラス・レイが「無理して撮った西部劇」(『大砂塵』)のような雰囲気を感じる(例えば赤の使い方や人物関係)。この映画であなたは西部劇をやりたかったのではないか、という蓮實氏(この作品が大好きだという)に対して、コスタは言う。西部劇ということは考えていなかった。むしろここでやりたかったのはジャック・ターナーの映画(『私はゾンビと歩いた!』)のように死者となった黒人があるとき生の側に帰還する物語だ、と。また『血』で家族から逃走したコスタは、EU加盟直後で沸いていたポルトガルからも逃走するために、カーポヴェルデへと向ったのだという。そしてあまりにも前作で自伝的な要素を出してしまったことにうんざりしたので、今度は『大いなる神秘』二部作(フリッツ・ラング)のようなロマネスクなものに挑戦したかったのだ、と。
次に『骨』について裏話的なことをコスタは語った。主人公を演じた男は、本物のならず者で、最初に道ですれ違って彼しかいないと思ったコスタが出演の話を持ちかけたとき、男はコスタのことを警察ではないかと警戒したそうだ。何度か会ってこの映画の物語を彼に話すと、そういう話だったらよく知っている、何度もそういう話を実際に目にしてきたと答えたという。男が赤ん坊の入った黒いビニール袋を下げて通りを歩く、あの印象的な長い横移動のショットについて、蓮實氏が、まさか実際にあの包みの中に赤ん坊が入っていたわけではないですよね、と冗談まじりに尋ねると、もちろん違います、私はやさしい人間ですから、とコスタは答えた。あのショットは自分でも映画固有の瞬間だと思う。それはあのショットがまさに映像と音響によって何かを語っているからだ、と。
そして『ヴァンダの部屋』について蓮實氏が述べた「第二の生誕」という言葉に関連してコスタは言う。映画とは死に抗うものだ。そして私たちの生を奪う資本主義にも。映画もまた二度生まれる。撮影とは対象に死を与えるものだ。そしてそれは編集によって再び息を吹き返す。そしてこれまで中心から逃げて来た自分はこの作品で新しい家族=中心を見いだすことが出来た。この「新しい家族」、すなわち自ら選び直すものとしての家族という主題は偉大な映画が繰り返し描いてきたものでもある。例えば『理由なき反抗』(ニコラス・レイ)。もしこの映画が「第二の生誕」という印象を与えるとすれば、これがその理由だろう、と。
最後に蓮實氏がコスタの映画に繰り返し現れる「年輩の女性」という形象について尋ねると、コスタは映画は自分にとってヘテロセクシャルなものでなのだが、何故そうなのかは語りたくないと述べ、自分はそうした母親くらいの年代の女性を撮ることにとても興味があり、日本でいえば原節子にとても関心がある。エディット・スコブを『溶岩の家』に出したのも、『顔のない眼』(ジョルジュ・フランジュ)でマスクで顔を覆われていた少女を演じていた彼女の現在を撮りたかったからだ、と答えた。そういえば『あなたの微笑みはどこに隠れたの?』ではダニエル・ユイレがまさにそうした年齢の女性で、しかも彼女を女優としてあなたは扱っていましたよね、と蓮實氏が聞くと、全くその通りだ、彼女はとても魅力的な女優だったよ、とコスタが答え、対談は幕を閉じた。

(後半戦) ペドロ・コスタ特別講義@映画美学校(16:30-21:30)

チャップリンの最初期の短編の一本である『失恋 THE TRAMP』と最晩年の『伯爵夫人』(チャールズ・チャップリン)からの抜粋(マーロン・ブランドが客室のクローゼットを開けると、スリップ姿のソフィア・ローレンが隠れていて、不法入国をしようとしている彼女は彼に匿ってくれと頼む。最初は断って彼女を追い出そうとするのだが、次々とこの部屋に人が来訪し、そのドアをノックする音に驚いた彼は咄嗟に彼女を他のドアの背後に隠すというギャグが繰り返される。ここでの映画的な仕掛けはまさにドアの開閉のみによって構成されている)を私たちが観終わった頃にコスタが到着した。
コスタは語る。映画学校に入学した時、それまで音楽をやっていたので、映画について何も知らなかった。そこでまず映画を「見る」ことから始めた。撮影・編集などの技術というのは教えることができる。しかし映画は感情とともにある芸術で、感情を教えるなんてことは決してできない。そこでこの「見る」という作業が役に立った。
そして会場である映画美学校の建物が以前は銀行であったというエピソードから、話は『極楽特急』(エルンスト・ルビッチ)の銀行のシーンへと移っていった。そのシーンでは登場人物は小切手ではなく愛の手紙を人目を忍んで書くのだ。そしてコスタはこの行為を一つの抵抗であると位置付ける。すなわち金銭、資本、市場にたいする抵抗としての愛の行為。映画を作る上でこうした「抵抗」というのは基盤となる。
ところで『失恋』と『伯爵夫人』を続けて観れば、チャップリンという映画作家がそのキャリアの初めから終わりまで一貫して同じことを描いてきたことが分かるだろう。そしてそれは徐々に余計なものを削ぎ落としていった結果に残る単純で明確な線のようなものである。あるいは「老年」についてジル・ドゥルーズが語ったように、老人とは自分自身でしかない人のことである。偉大な映画作家というものは晩年にこのような抽象性に到達する。小津の『秋刀魚の味』やフォードの『荒野の女たち』がそうであったように。映画作家は20歳であると同時に80歳でなくてはならない。すなわち社会に反抗する永遠の若さから年老いることの苦味に到るそのような感情の広がりを持つことだ。ところがまさにこの「感情」というのはハリウッドのような市場で取り引きされているものでもある。私たちはそれに抵抗しなければならない。というのも資本主義社会における取り引きというのは常に公正さを欠いているからだ。
次に『ラルジャン』(ロベール・ブレッソン)の抜粋(主人公がホテルで殺人を犯し金銭を奪って出ていき、銀行の前で出会った老嬢の後を尾けていく)と『Night of the Demon』[ビデオ題『Curse of the Demon』](ジャック・ターナー)の抜粋(ダナ・アンドリュースが恋人と催眠術師の乗っているコンパートメントに乗り込んで、呪いの札を催眠術師のポケットに入れる。それはある時刻がくるとそれを持つ者に死をもたらす紙切れなのだが、風に吹き飛ばされた呪いの札を催眠術師はどこまでも追い掛けていって、列車に轢かれてしまう。列車の進行方向と逆向きに札を彼が追い掛けるカットが残酷なユーモアに満ちている)を観て、この共通点についてコスタは語る。ジャック・ターナーとロベール・ブレッソン、この全く異なった映画製作システムの中にあった二人の作家が分かち合っているもの、それは善悪の探究についての姿勢である。これらの抜粋を見れば分かるように、二人はともに目に見えないもの(=悪)を目に見えるもの(=紙切れ、紙幣)によって表現している。彼らはいわば唯物論的な映画作家であり、ここでいう唯物論とは同時に精神的・形而上的・宗教的ですらあるもののことだ。そしてまたこれらのシーンを見て分かるのは、心理というものは映画の構成の中にしか存在しないということである。音響と映像をもちいるメチエ、これが映画に対する倫理的な態度だ。
最後に『セザンヌ』(ストローブ=ユイレ)の抜粋を見ることにする。ここで「映画作家」セザンヌが絵画について語っていることは、そのまま映画についてあてはまる(『ストローブ=ユイレの映画』p180を参照のこと)。セザンヌが行ったのは「感覚の物質化」ということである。彼は風や雨に抗ってその仕事を行い死んだ人である。私たちが撮る映画も何かに抗うべきだ。そしてその何かとは金銭であり資本であり市場である。なぜならそれらは私たちの地球に災いをもたらしているからだ。そしてセザンヌのように「火」(=始元的な暴力)とともに仕事をしようではないか。ショットの中に火が燃え立っていなければならない。
この後、質疑応答があり、ロバート・クレーマージャン=リュック・ゴダールについて尋ねたところ、以下のような答えがコスタから返ってきた。ロバート・クレーマーについては個人的にも面識がないし、作品もあまり見ていない。ただ思うに彼は小津やフォードといった偉大な作家の系列からはやや距離を置いた場所に位置していると思う。ゴダールは『あなたの微笑みはどこに隠れたの?』を観て、これは彼の『映画史』とともに観られるべき映画だと言ってくれた。両者は相互補完的な関係にあり、『映画史』がモンタージュについてのマクロ的、望遠鏡的な作業、ほとんど「宇宙のモンタージュ」といっていいような映画であるのに対し『微笑み』の方はミクロ的・顕微鏡的なモンタージュについての映画である、と。
そしてこの講義を締めくくるにあたってコスタは、いつか君たちの火によって書かれたラヴレターを読むことができる日が来るのを楽しみにしていると付け加えた。