ABCに「蓮實重彦とことん日本映画を語る」を聴きに行く。本日のお題は「日本映画「崩壊」と「変化」―1960年代を中心に―」。以下は私なりの要約。
まずは珍品ビデオの紹介。ロシアで小津の回顧上映が行われた際に放送されたテレビ番組でなぜか蝶ネクタイをした蓮實氏が小津について語っている。これは1999年1月28日にモスクワ映画博物館のナウーム・クレイマンのオフィスで撮られたものなのだが、どのような経緯で自分の手元に渡ってきたのは不明だという。ロシア語のナレーションが被さっているので、蓮實氏が何を言っているかは聞き取れないのだが、ロシア語が途切れた合間に断片的に聞こえてくる脈絡の不明な断言が微笑を誘う。
本論に移ろう。映画が存在するということは全く自明のことではない。映画とは何億分の一かの確率で、あるときたまたま人類の歴史に出現したものにすぎないのだ。映画は1940年代から1950年代にかけて一度死にかけている。ハリウッド映画を例にとって考えると、その原因として、テレビの普及、独占禁止法判決など様々な理由が考えられる*1。また製作費の高騰などもあげられるだろう。そのため人件費の安いメキシコなどで西部劇が撮られたりする。
ところでジャン=リュック・ゴダールはネオ・レアリスモを扱った『映画史 3A』のラストの方で以下のように述べている。
一体どうして、40年から45年に、レジスタンス映画がなかったのか。レジスタンスものの映画がなかったのではない。右にも、左にも、ここかしこにあった。だがアメリカ映画による映画の占有と、映画を作る何らかの画一的なやり方に抵抗したという意味での唯一の映画はイタリア映画だった。これは偶然ではない。イタリアという国は、闘いが最も穏やかだった。たっぷりと苦しんだが、二度、寝返った。(略)ロシア人は殉教者の映画を作った。アメリカ人はコマーシャル映画を作った。イギリス人は映画においていつも通り、何もしなかった。ドイツには映画がなかった、もはやなかった。(略)それに対して、『無防備都市』とともに、イタリアは単に国民が事態を直視する権利を取り戻したのだ。(略)どうしてイタリア映画はかくも偉大になることができたのか、ロッセリーニからヴィスコンティ、アントニオーニからフェリーニに至る誰もが、映像と音を同時に録っていないというのに。答えは一つだ。オウィディウスやヴェルギリウス、ダンテやレオパルディの言葉が、映像のなかを通過したからだ。
このナレーションは『映画史』においては、「偉大なるイタリア映画、偉大なるイタリア映画」というフレーズのあるリッカルド・コッチャンテのカンツォーネとともに「偉大なるイタリア映画」の抜粋*2が次々と現れる涙なくしては見られないシーンで聞こえてくるものだが(ちなみに蓮實氏は『自転車泥棒』の主人公の帽子から雨滴がぽたぽた落ちるところで堪え切れなくなって泣いたとのこと)、もちろんこのゴダールの断言は大嘘である。古代ローマ人が話していたラテン語と現代イタリア人が話すイタリア語とは別のものだからだ。にもかかわらずここには一つの真実がある。それを『イタリア旅行』(ロッセリーニ)の素晴らしいラストシーン(宗教的なパレードに熱狂した信仰心の厚い群集たちのためにイングリッド・バーグマンとジョージ・サンダースの夫婦が離ればなれになりかけ、すぐまた抱き締めあう)を見て考えてみよう。この映画は「男と女と自動車さえあれば映画が撮れる」との確信をゴダールに抱かせ、『勝手にしやがれ』を産み出したことでも名高い作品である。ここで注意すべきは、その「路上性」ともいうべき生々しさである。このシーンには実はクレーンの影が映り込んでいるのだが、通常はリテイクされるべきものでも、その場の臨場感が捉えられていれば、ロッセリーニは動じない。戦後のイタリア映画によって映画は路上の生々しさに目覚めたのだ。もう一つの例、これは蓮實氏が「無人島に持っていきたい映画」というバカな質問に答えるとしたら挙げる一本の『アンナ・マニャーニ』(ヴィスコンティ)である。ちなみにこの作品を「偉大なるイタリア映画」として『映画史』のなかに入れなかったゴダールを蓮實氏は許さないという*3。ここでもやはり映画は路上に飛び出している。最後に彼女が劇場で唄う場面のクローズアップの照明(首のあたりから下が影になって彼女の顔が画面に浮かび上がっている)は「女優はこう撮れ」というお手本のような素晴らしいものである。ところがこうした「路上性」を、この後、実際に映画会社を潰したほどの莫大な予算をかけて『夏の嵐』を撮ったヴィスコンティは忘れてしまう。ネオ・レアリスモの他の作家、パゾリーニ、フェリーニに関しても同様。これらを蓮實氏は「ヴィスコンティ1/ヴィスコンティ2」、「パゾリーニ1/パゾリーニ2」、「フェリーニ1/フェリーニ2」と呼んでいるが、いずれの作家においても「2」(後期)よりも「1」(前期)の方が素晴らしい。ちなみに『ルードヴィヒ』までくると「ヴィスコンティ3」が始まっているとのこと。
さてネオ・レアリスモに端を発した「路上性」は、ヌーヴェル・ヴァーグを介して、1960年代の日本映画にも現れてくる。まず『勝手にしやがれ』(ゴダール)の名高いラストシーンを見てみよう(背中を撃たれたジャン=ポール・ベルモンドがよろけながら路上を駆けていって倒れる)。次に『ろくでなし』(吉田喜重)の瓜二つのシーン(腹部を撃たれた津川雅彦が自動車を降りて路上をよろけながら駆けていく。実はこの映画を撮影した時、吉田は『勝手にしやがれ』を見ていなかったのだが、津川がすでに見ていて良く似ていると言うと、吉田は面白がってそのまま撮ったそうだ)。あるいは『豚と軍艦』(今村昌平)のヒロインが人の波に逆らって歩いていくラストシーンや『誇り高き挑戦』(深作欣二)の夜の街頭での追跡シーンなどを見ても分かるように、そこには、人が歩いたり走ったりしている持続がそのまま映画的対象となりうるという発見がある。また『893愚連隊』のラスト(松方弘樹と荒木一郎の愚連隊が高松英郎ら「博打打ち」から金を奪い、その追跡を間一髪のところでかわすまでの息詰まる場面)も「路上性」に満ちている。やはり荒木一郎が出ている『日本春歌考』(大島渚)の雪の降りしきる中での「黒い日の丸」のデモ行進の名高い場面は、大島ならではの見事なシーンである。撮影当日に偶然降った雪がこの場面に効果的な彩りを添えている。
こうした「路上性」はこの時代の時代劇にも波及するのだが、『修羅』(松本俊夫)にそうした例を見ることができる。御用提灯に中村賀津雄が追われる場面はロケで撮られているが、かなり様式化されており(追っ手は黒子の衣装を身に着けている)、そこには低予算による制約とそれを逆手に取ったある種の前衛性とを見ることができる。ではそれ以前の映画では提灯はどのように撮られていたか。『浪花の恋の物語』(内田吐夢)の中村錦之助が店の金を横領して、有馬稲子の待つ花街へと向う場面では、橋の下を通っていく屋形舟からの明かりが空間の奥行きを与えている。
さてハリウッド映画において現れた変化(「映画の死」)が、日本映画においても1959年あたりから現実のものとなっていく。その気配に誰よりも敏感だったのは黒澤明だった。『七人の侍』ほど大がかりには映画はもはや撮れない。ではどうしたらよいのか。分かりやすい主題で観客を引き付ければよい。映画において最も分かりやすい主題とはもちろん「対立」の図式、つまり「誰が最強か」という主題である。そうした観点から作られたのが『用心棒』(黒澤明)である。こうした流れの源流には『ヴェラクルス』(アルドリッチ)があり、現在の『座頭市』(北野武)、『ゴジラ』シリーズあたりまで続いている。しかし『用心棒』のクライマックス(三船敏郎は、ピストルを構えた仲代達矢の腕に包丁を投げてその攻撃を封じ、その手下を斬り捨てていく)に問題がないわけではない。包丁を使うというアイデアももう少し他にあるだろうし、殺陣も緩慢である。この場面と『座頭市血煙り街道』(三隅研次)の充実したクライマックス(雪の降る中、勝新太郎と近衛十四郎が対峙し、勝新は見事な一撃を相手に食らわすことができるが、逆に仕込み杖を叩き飛ばされ、素手で近衛の刃の下に立つ。緊張の一瞬。突然、優勢だと思われた近衛が自分の負けだと言って去っていく。彼の去った道の降り積もった雪の上に残る一筋の血)を較べてみればよい。三隅研次の残したこの美しいシーンを超える殺陣を日本映画はその後、持ちえていない。
*1:このあたりの事情については蓮實氏の『ハリウッド映画史講義』を参照のこと
*2:登場する作品は『無防備都市』(ロッセリーニ)、『ストロンボリ』(ロッセリーニ)、『崖』(フェリーニ)、『ウンベルトD』(デ・シーカ)、『揺れる大地』(ヴィスコンティ)、『山猫』(ヴィスコンティ)、『自転車泥棒』(デ・シーカ)、『テオレマ』(パゾリーニ)、『赤い砂漠』(アントニオーニ)、『にがい米』(ジュセッペ・デ・サンティス)、『砂丘』(アントニオーニ)、『アマルコルド』(フェリーニ)、『夏の嵐』(ヴィスコンティ)、『道』(フェリーニ)、『イタリア万歳』(ロッセリーニ)、『神の道化師フランチェスコ』(ロッセリーニ)、『大きな鳥と小さな鳥』(パゾリーニ)である。
*3:オムニバス映画『われら女性』の中の一挿話であるこの映画は、タクシーの運転手に膝に載せた子犬に対する追加料金を不服としたマニャーニが憲兵たちを巻き込んで大騒ぎをするという他愛のない実話をもとにしたものだが、そこでの彼女の存在感は圧倒的に素晴らしい。