プレッジ/クローサー/マグノリア

a)『プレッジ』(ショーン・ペン
b)『クローサー』(コリー・ユン
c)『マグノリア』(ポール・トーマス・アンダーソン

a)ショーン・ペンは一作目の『インディアン・ランナー』にのれなかったので、それ以来敬遠していたのだが(『セプテンバー11』のアーネスト・ボーグナインを使った短編も周囲では評判がよかったのだが、いまいちピンとこなかった)、「文学界」新年号の蓮實・阿部対談で割に肯定的な評価をされていたので見てみた。冒頭の独り言を呟くジャック・ニコルソンと空を舞う鳥の群れのオーバーラップから、今回もまたのれない予感がしたのだが、少女の両親に彼女の死を告げにいく役回りになったニコルソンが少女の手製の十字架に犯人を見つけだすことを半ば強制的に誓わされるあたりから運命の歯車が回り出し、後戻りできないただならぬ感じが画面に漂い出す辺りから、こちらも引き込まれていき、後半、彼がロビン・ライト・ペンと買い物に行き、彼女の幼い娘のためについ赤い服を選ぶことに同意してしまう(連続少女殺人事件の被害者たちは一様に赤い服を身に付けていたのだ)あたりには、この男にかかった「呪い」のようなものが見事に表現されていて唸らされた。傑作。
b)スー・チーヴィッキー・チャオカレン・モク主演の香港アクション。冒頭、バート・バカラックの「CLOSE TO YOU」が静かに旋律をきざむ中を敵に囲まれたスー・チーがたった一人で敵を次々に倒していく様がワイヤー・アクションとスローモーションで描写され、そこはちょっと鳥肌ものの素晴らしさだった。
c)P・T・アンダーソンも「食わず嫌い」をしていた作家のひとりだったのだが、年末に文芸坐で見た『パンチドランク・ラブ』が意外に良く、早速、『ブギーナイツ』から見始めた。彼の作品は物語の着眼点にどことなくあざとい感じがするのだが、別にそこは嫌いではない。ただ『マグノリア』を見ていて気になったのは時間の処理の仕方で、複数の空間で同時に起きている出来事を表現するためにクロスカッティングが使われているのだが、例えばシーンAの次にシーンBを繋いで再びシーンAの続き(シーンA')から始めるという場合(実際は複数のシーンが挿入されているのだが単純化するために二つだけで考える)、もしこれが同時性の表現だったとしたら、シーンBで流れた時間だけ後の瞬間からシーンA'を始めた方がスッキリするはずなのだが、この作品ではその辺りに関して無頓着なのか意図的なのかは分からないのだがそうなっていない。なぜ意図的なのかそうでないのかが分からないかというと、ある繋ぎでは時間はすんなりと流れ、別の繋ぎではそうなっておらず、特にその二つの処理の仕方に関して明確な演出上の使い分けがなされているように思えないからだ。上映時間が三時間もあるのは、そのあたりに原因があるのではないか。
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