ヴェネツィア時代の彼女の名前

a)『ヴェネツィア時代の彼女の名前』(マルグリット・デュラス

a)今日からしばらく「デュラスまつり」をやろうかと思う。その第一弾。この作品は十年以上前からずっと見たかった作品の一つで、以前、東京日仏学院でデュラス特集をやった際にこれだけ見逃してしまって悔しい思いをしたものだ。デュラスの『インディア・ソング』は自分にとってオールタイムベストに必ず入る作品で、これまで数え切れない位、折にふれ繰り返し見てきたし、これからもそうだろう(もちろん『ナタリー・グランジェ』、『トラック』、『アガタ』、『オーレリア・シュタイネル』二部作、『船舶ナイト号』、『大西洋の男』、その他短編、全て素晴らしい。ただしここで告白しなければならないが、遺作の『子供たち』はどうしても好きになれなかった。だがこの作品については後日、見直して考えてみたい)。ストローブ=ユイレの『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』もそうした作品の一つだし、ゴダールの『パッション』などもそうだ。これらの作品は「映画とは何か」という問いかけに対する一つの(あるいはいくつかの)答えである。また映画史的にいっても「現代−映画」(「モデルニテの映画」と言い換えたい誘惑に駆られるが)の金字塔といってもいい。
さて、この作品はよく知られているように、『インディア・ソング』と同一のサウンドトラックを使って作り上げられた双子の映画である。見る前にそのことは知識として知っていたし、ある程度、どのようなものかに関しても予想はしていた。だが、見始めてすぐ、そうしたものが快く裏切られていくのを感じた。なるほど、『インディア・ソング』で何度も耳にした音響に廃墟(『インディア・ソング』の絢爛たる舞台であったパレ・ロスチャイルド)の映像が確かにモンタージュされてはいる。しかし、それは全く新しい強度を伴ってなのである。実際、荒れた石畳を捉えたキャメラがそのまま横移動する映像に、おなじみの「乞食女」の叫びが重ねられたファースト・ショットを見ただけで、自分が全く未知の映画と向き合っているのを感じるだろう。それ以降、約100分の間、非人称の視線=キャメラは廃墟の内部を薄暗がりの中、美しい光で時に固定画面で時に移動撮影で捉え続ける。圧巻は、闇に包まれた室内をひとすじの光(おそらく懐中電灯のようなもの)があちらこちらとその一部を闇から切り取りつつ、キャメラがその光の後を追うように上下左右へのパンを伴った前進移動を続け、そこに「ラホールの副領事」(マイケル・ロンズデイル)の声が被さる長いワンシーン・ワンカットだ。それは、ここには不在のアンヌ・マリー・ストレッテル(デルフィーヌ・セイリグ)の姿の痕跡をこの廃墟に探し求めようとする恋の虜の狂気の視線であり、それはそのまま私たちの視線と重なり合う。ここにきて突然、非人称であったはずの視線が人称化されるのである。そして奇跡が訪れる。この画面に続くパレ・ロスチャイルドのファザードを斜めの軸から捉えた長い横移動の後、デルフィーヌ・セイリグを初めとする数人の姿が、無人だったはずの室内空間に突如として現れる。しかし彼らは皆、一様におし黙っていて、まるで活人画のように姿勢を凝固させ、うつろな視線を前方に漂わせている。彼らはこの廃墟に幽閉された亡者なのだ。『インディア・ソング』においても、彼らの存在はどこか希薄な感じを漂わせていたものだが、ここでの彼らはまさしく生を剥奪されている。そしてあの日没が、今度は地平線にではなく、美しい夕暮れ時の海辺の水平線の彼方に小さく姿を見せる。映画は、時間をかけてゆっくりとそれが海に消えてゆく様を固定画面で見せていく。そしてこの美しい作品は幕を閉じる。