フライシャーまつり

a)『ザ・ファミリー』(リチャード・フライシャー
b)『マジェスティック』(リチャード・フライシャー

a)「デュラスまつり」をやるつもりだったが、TSUTAYAが100円セールをやっていたので、10本ほど借りてしまい、それを一週間以内に見なくてはならないので、予定を急遽変更して「フライシャーまつり」。
さてリチャード・フライシャーという人は、ハワード・ホークスと並んで最もその作家性について語りにくい映画作家の一人ではないか。それはもちろん両者ともにあまりに聡明であるがゆえに、そのフィルムが説話の経済にあまりに円滑に寄り添って、ついにはそれと一体となって身に纏う過度の透明性によるものだろう。したがって、その作品は私たちにとって不可視のものとなってしまい、例えばペキンパーのように混濁した作品を撮る作家について語る際に手掛かりとなったようなある種の物質的な手触りというものは、少なくとも視界から一掃されている。
しかしこの二本の作品を見ていてある共通する主題がそこに存在することに気づいた。それは作劇上のちょっとした癖のようなのかもしれないが、二つの作品の脚本家が別の人物である以上、それはフライシャー的な主題なのだと言っても構わない。ではその主題とは何か。この二本の映画において、「トイレ」が姿を見せたり、その言葉が発せられたりすると、決まって説話的に重要な出来事が起こるということだ。そんな馬鹿なと思われるかも知れないが、それを以下に具体的に示していくことにする。
『ザ・ファミリー』でファミリーを二分する抗争の発端となる出来事は、アンソニー・クインが娘ほども歳の離れた甥の恋人とそうとは知らずに恋仲になってしまうことだが、その場面において、クインの自宅を訪問していた女が一瞬席を離れ、ある予感とともに彼が寝室に行くと、全裸の女がシーツにくるまって彼を迎えるのだが、その一連の行為のきっかけとなったのが、「化粧室」を貸してくれという女の一言であることを見逃してはならない。次にマフィアから足を洗いたがっていたフレデリック・フォレストが、逆に復讐の鬼と化して抗争の戦闘に立つきっかけとなる兄アル・レッティエリの死とそれに続くシーンを見てみよう。兄の死を引き起こす銃撃戦がどのようにして開始されたか。バーにやってきたタクシー運転手(実は殺し屋)が、「トイレ」をめぐって店の主人と会話を交わし、トイレに行くと見せかけて、振り返りざまに店内にいたもう一人の客である標的に発砲し、目撃者の主人をトイレに監禁するというシーンによってである。さらに兄の死に続く場面では、兄弟がアジトにしていたガレージが自動車に仕掛けられた爆弾で爆破してしまうのだが、そこでもやはりガレージにいた二人の部下のうち、一人がトイレに入った直後にその惨劇が起こっている。ついでに言うなら、復讐のため、敵のアジトに爆弾を仕掛け、炎上から逃げ出した者たちをフォレストらが狙い撃ちするのは、下水道の排水溝からである。なお余談だが、フォレストは部下たちにきっかり十時に同時多発的に敵を襲撃することを命じるのであるが、この場面の処理をフライシャーは複数の場所をでクロスカッティングで繋げるのではなく、エピソード的に殺しの場面を次々に描写していき、それらが「同時に」起きているということの表現に関して無頓着でありようにみえるところが、潔いというか大胆だ。


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b)さて『マジェスティック』においては、まさしくチャールズ・ブロンソンがガソリンスタンドのトイレから出てくるシーンからこの作品が始まっている。そこに移民労働者の集団がやってきて、トイレを借りようとして店員ともめるシーンがそれに続くことになるのだが、彼らは後にブロンソンがいざこざで警察に拘留されている間も、唯一、彼の農場での働き手となる人物たちであり、しかもこのシーンは彼の良きパートナーとなるリンダ・クリスタルとの出会いのシーンでもある点で重要である。次にブロンソンへの報復に燃えるアル・レッティエリが、彼を釈放させてから殺す計画を思い付くキャンピングカーのシーンで、彼の情婦がその車に備え付けられているシャワーがトイレの真上にあるとはしゃいでいることにも注意を促しておきたい。そしてあの衝撃的なワンシーン・ワンカット。ブロンソンを囮にレッティエリたちの動きを見張っている私服警官が夜ひとりで簡易トイレに入るやいなやレッティエリらの車にトイレごとはねられ殺される場面。しかもそれがブロンソンの農場への攻撃のいわば序曲になっている点でその物語的意義は明らかだ。しかもその後、ブロンソンらがビールを飲んでいるところにレッティエリたちが乗り込んでくるのだが、それはリンダ・クリスタルがトイレに行くために席を外した間である。そしてこれは後半における二人の最初の正面対決の場面でそこでブロンソンはレッティエリにパンチをお見舞いする。そしてラスト近く、手下たちが農場を取り囲んでいる時にレッティエリがやって来てブロンソンの様子を尋ねると、手下は「トイレに入っているか、ベットの下に隠れている」と答える。そしてその後、戦いの口火が切られる。
以上、詳しく見てきたように1970年代前半に続けて撮影されたこの二本の作品において、「トイレ」という言葉がつぶやかれたり、それが姿を見せたりすると決まって何かが起こる。その意味でフライシャーの作品にあっては「トイレ」は不吉な場所である。だが、これは何も彼が排泄行為に殊の外、関心を寄せていたということを意味するものではない。「トイレ」の機能、それは登場人物を孤立化させる(それは彼が席を外した後に残された相手も同様である)とともに、無防備にしてしまうことだろう。しかもフライシャーはそれをある種の遮断幕としてのみ用いており、したがって画面に映るのはその扉だけである(ただし、例のワンシーン・ワンカットは例外でそこでは道に倒れた簡易トイレの扉が開かれ内部には犠牲者が倒れている。しかも奇妙なことに便器らしきものはそこには映っていない)。外部から姿を隠すこと。それによってある出来事を生じせしめること。そしてそれは自らの作品から自分の署名を消そうとしているかに思えるフライシャーの透明な身振りとどこか通じ合ってはいないか。


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