われらが親父、ジャン・ルノワール

hj3s-kzu2004-02-07

a)『われらが親父、ジャン・ルノワール』(ジャック・リヴェット

a) ジャン・ルノワールミシェル・シモンの二人が大声で笑いながら楽しそうに思い出を語り合っているのを見ているだけで幸せな気分になる。まるで大きな熊か犬がじゃれあっているかのようだ。リヴェットはこの作品の監督であるにもかかわらず、二匹の獣の好きにさせ、質問らしい質問もせず、キャメラマンが手持ちキャメラで二人の周りをぐるぐる回っているのにも頓着せず、テーブルに肘をついて二人の話をニコニコと聞いているだけだ。それもそのはず、この偉大な映画作家と名優を前にしては小賢しい「演出」など無意味だからだ。逆に言えば、ルノワールのドキュメンタリーを撮るに当たって、同時にミシェル・シモンを「キャスティング」した時点で、彼の演出は成功したも同然だ。
対話は二人の他にも数人がテーブルを囲んで、コーヒーやワインを飲みながら打ち解けた雰囲気で進んでいく。まるで気のあった仲間たちが映画談義をしているみたいだ。ここにもさりげないリヴェットの演出がある。そして「現代の映画作家」シリーズにあってもこうした作品は稀である。
二人は主に『牝犬』と『素晴らしき放浪者』にまつわるエピソードを語っていく。例えば、『素晴らしき放浪者』でシモンが演じる浮浪者の衣装は実際の浮浪者から彼が買い取ったものだという。
またこの対話ではルノワールの口から何度となく俳優の重要性と脆さが強調される。曰く、俳優はとても繊細な存在だから、彼らが演技に集中しようとしている時に、無遠慮に彼らの顔の前に巻き尺を伸ばしたり、カチンコを出したりしてはいけない。これはとても示唆に富む一言だろう。また俳優との共犯性という言葉も何度となくルノワールから聞かれる。そしてもちろんこれは確実にリヴェットに受け継がれているものだ。
途中でフィルムを交換しなくてはならなくなっても、二人の会話はお構いなく続けられていく。そのため、数度の黒画面とカチンコが会話の間にはさまっている。またフィルム交換の時に、キャメラがあらぬ方向を向いて、照明機具などが映り込んだりもする。だがリヴェットはそんな些末なことには頓着しない。
ルノワールが突然、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』の話をし始め、環境問題について滔々と語っていると、そんな書物など読んだことはないシモンが胸ポケットから手帳を取り出し、しかつめらしく書名をメモしているところは、とても可笑しい。きっとあの後、彼はそんなメモなどしたことすら忘れている。
リヴェットの隣に座っている男が一瞬写り、彼はライカで顔を隠してしまう。誰かと不思議に思っていたのだが、最後のクレジットで写真家のアンリ=カルティエ・ブレッソンだった。かれもまたルノワール組の一人だった人物である。