東京イン・パブリック

a)『ネオンの女神たち』(ユー・リクウァイ)
b)『東京イン・パブリック』(ジャ・ジャンクー
b) この作品を見て、「やはりジャ・ジャンクーは凄い」と絶賛したり、あるいは「やはりジャ・ジャンクーは駄目だ」と貶したりするのは、ともに間違いである。しかしその罠に落ちてしまった人は相当数に上ると思われる。この作品に対する正しい態度は「しょうがないなぁ」と笑ってやり過ごすことだ。この映画作家の故郷である大同についてのドキュメンタリーである前作『イン・パブリック』と一見、同じようなコンセプトによって撮られたかのようにみえる、この「東京篇」は実は似ても似つかないものである。前作にあった明確な「視点」(この語のあらゆる意味における)がこの作品には欠けている。冒頭の数十分がヴィスタ・サイズで撮られ(というよりDVカメラのいわゆる「シネマ・モード」機能―ちなみに私はこの機能を使って撮られた自主映画が大嫌いだ)、キャメラが地下鉄の駅の地下通路に移るやいなやスタンダード・サイズに変わる。しかもそれによってこの作品の持続に何らかの変容をもたらすことが目論まれているわけではなく、単にこのボタンを押し忘れた、あるいは「シネマ・モード」に飽きた、本当にそんな感じでいきなりスクリーン・サイズが変化するのだ。ビルのウィンドウに自らの姿を映してダンスの練習に励む少年少女たちを延々捉えた冒頭の場面(雑なブロックノイズが入り一瞬早送りのような画面になる)から何となく予感がしていたのだが、この画面サイズの変更の瞬間に私は確信した、「そうか本気で撮っていないんだ!」(そう思うやいなや、これらのショットを撮っているジャ・ジャンクーの姿が思い浮かんで可笑しくなった。彼のことを知るはずもない被写体となった多くの日本人にとって、彼は何と変な外国人に映ったことだろう)。おそらく本人ですら「作品」とみなしていないだろうこの映画について、褒めたり貶したりすることが意味を持たないのはそのためである。では一体、これは何なのだろう。ありもしない「作家の真意」なるものを捏造して、そう考え始めてしまうことがすでに一つの罠なのである(今この文章を綴りつつあるこの私もいくぶんかその罠にはまりつつあるのかもしれないが、それはこの際、問わないことにする)。決してこの作品によってジャ・ジャンクーの映画的才能を計るべきではない。しかしこの作品を自身の署名のもとに流通させてしまうジャ・ジャンクーとは、かなりの大物かもしれず、この映画を除く彼の作品のキャメラを担当し、自身、映画作家でもあるユー・リクウァイの不幸とは身近にこんなとんでもない男がいることである。決して悪くない『ネオンの女神たち』も『東京イン・パブリック』のある意味「愚鈍さ」に比べると「凡庸」に見えてしまうのだ。なお映画●学校の皆さんは決して真似しないように。やろうと思ってもできるものではないし、仮にできたとしてもどうせ碌なことがない。この作品を見て「そうかこれでいいのか!」と思うのは大いなる錯覚。最後に一言付け加えておくと、ジャ・ジャンクーは誰が何と言おうと素晴らしい映画作家です。
ドキュメンタリー・ドリーム・ショー―山形 in 東京2004@アテネフランセ文化センター
http://www.athenee.net/culturalcenter/schedule/2004_09/yamagata2004/indexY.html