2046

hj3s-kzu2004-10-28

a)『2046』(ウォン・カーウァイ
a) スターとは何か。それは光を受け止め、反射させる表面である。そして私たちはその表面に推移する微妙な輝きや翳りに胸を締めつけられるのだ。その意味ではトニー・レオンチャン・ツィイーフェイ・ウォンコン・リー、カリーナ・ラウ、マギー・チャンといった錚々たる面々(やはり「面」である)が匂いたつような官能を漂わせる、こういった作品を今なお産み出している香港映画というのはやはり世界的にも相当な水準にあるのだろう。こうした人たちに比べると木村拓也はやや弱い。いや悪くはないのだが、やはり彼は、スターではなく、たかだがタレントでしかなかったと言うべきだろう。もはや映画においてスターを見る楽しみというのは香港映画にしか残されていないのかもしれない(香港映画ファンのファナティシズムもおそらくここに由来する)。これだけのスターを集められるのは、ハリウッドでももはや不可能である(それ以外の国の映画については言うまでもない。ただしポルトガル映画だけは例外かもしれない)。何らかの誤解からスターと呼ばれている現在のハリウッドの俳優たちの大半は、実は単なる人気男優や人気女優でしかないのだ。彼らは光を受け止め、それを反射させるだけの表面を持っていない。それにしてもトニー・レオンは何と素晴らしいのだろう。彼にぞっこんのチャン・ツィイーを拒絶する時のあの残酷さといったら!『夏の嵐』(ヴィスコンティ)のファーリー・グレンジャーでさえ彼に比べたら数段落ちる。現在、世界で最も魅力的な男優はトニー・レオンではなかろうかと常々思っていたのだが、やはりそうであることがこの作品によって証明された。一方、世界で最も魅力的な女優はチャン・ツィイーだと思っているのだが(ニコール・キッドマンシャロン・ストーンも素晴らしいのだが、作品によってばらつきがある)、やはりそうであることが証明された。フェイ・ウォンの視点の定まらないような瞳の輝きも素晴らしいし、個人的にはそれほど好きではないコン・リーもラスト近くのトニー・レオンとの別れの場面は圧倒的だった。そして彼女たちは一様に美しく存在感のある腰のラインの持ち主である。まるでウォン・カーウァイは「女優は腰できまる」とでも言いたげだ。20世紀に咲いた最も美しい華のひとつである『フラワーズ・オブ・シャンハイ』のホウ・シャオシェンほど偉大ではないが、映画を二時間持続させるためにはどんな顔が必要なのか(逆にそうした顔さえあれば、私たちは飽きることなく画面をいつまでも見続けてしまう。*1)を本能的に知っているがゆえに『花様年華』の作家は反時代的であり貴重なのだ。前作の英語題『In the mood for love』が示しているように、『花様年華』が愛の開始を告げる甘い官能の昂まりの「mood」を描く映画であったとすれば、この『2046』は一つの決定的な愛が終りを告げてしまった後の「mood」の中で、なお愛は可能なのかという問いを複数の愛を通して生きる人物の物語である。
2046 [DVD]

*1:もちろんここでいう顔は、単なる美醜の問題を指しているのではなく、光との関係によって決定される。