ボニゼールとことんシナリオを語る その3

hj3s-kzu2005-10-18

(昨日の続き)
3.映像は物語る
 それでははたして、シナリオライターは何よりもまず「物語る人」なのだろうか。シナリオライターは単なる語り手なのだろうか。
 語り手とは全知の人であり、シナリオライターとは専門家、プロ、技術者でなければならないという限りにおいて、おそらく完全にそうとはいえない。
 シナリオライターの仕事は、実際には、特殊な素材─私たちが関心をもつのは映画的な素材である─に語りの形式を適応させることである。この物語言表がこの素材のために発明されること、それが戯曲、三面記事、詩*1、大衆的な物語、小説、ニュース、年代記から取り出されること、それがシナリオライターの役割である。すなわち、物語=形式を映画=素材に適合させること。
 語ることができるだけでなく、映像に応じて、クロソウスキーの名文句を言い換えれば、「映像〔l' image〕の命じるままに」物語ることができなくてはならない。*2映画のシナリオライターは物語ることを愛し、物語を愛さなくてはならないだけではなく、映像を愛し、映像たちを愛さなくてはならない。
 それは、映像、すなわち複雑でしばしば狡猾なものが、言葉の様式とは異なった様式によってもまた、語るということである。

 詩人、作家、そしてとりわけアントニオーニ、フェリーニタルコフスキーの映画のシナリオライターであるトニーノ・グェッラは述べている。「私がシナリオを書こうとする時、私は詩的な映像を見出そうと試みる。そこには小説的なものなどないし、私は決してそうしたものを好まなかった」。そしてシナリオライターの仕事についての観念をあたえるために、彼は絵画的な隠喩に訴える。「もし私が画家のモランディに『数本の瓶』を描くように提案するならば、私は彼に主題をあたえたのであり、それは最小の価値を持った行為である。なぜなら彼は、完全な特性をそれらに与えることができ、キュビズム形而上学、等々に連れ戻すような抽象的な方法で、それらを描くことができるからだ。もし数本の瓶が何でもないものならば、真の仕事をするのは彼である。だが、もし私がモランディに『数本の瓶を主題にしたらどうだろう。ただ、それは、テーブルの真ん中に集められた四本の瓶で、周りの空間が存在するように、それらは画の表面全体に配置されてはならない』と言うならば、それはタブローの構造である。というのも私は彼にスタイルの一部をなす以上の要素を提案した、なぜなら、恐れのためであるかのように、それらが一つであるという観念のように、窮屈そうに、この空間の真ん中にある、中央の四本の瓶を彼が私に提示するからだ」。*3
 この例によって、何においてシナリオがある仕方ですでに演出を含んでいるのかがわかる。それは潜在的な演出である。そこには演技(テーブルの真ん中に寄せ集められた)、空間、照明、ショットのサイズの指示がある。
 もし誰かが、タブローについてのトニーノ・グェッラの提案を紙に書こうとするなら、それはどのようなものになるだろうか。「むきだしの表面上の、おそらくテーブル上の四本の瓶。それらは薄暗くコンパクトなマッスのなかでお互いに身を寄せ合っている。それらは柔らかく青白い光のなかで灰色の壁から浮かびあがっている。まわりでは、空間は空虚である」。あるいはより簡潔に、「四本の瓶がテーブルの中心でひとかたまりになっている。周囲の空間は空虚で不確定である」。あるいはさらに省略して、「四本の瓶が何もない部屋の真ん中のテーブルの上に置かれている・・・」。
 これらの記述のどれでもよいわけではない。それらは、雰囲気、状況の判断において、感情において、読み手の期待において、ときには重要な、ニュアンスを示唆する。それらは、多少とも簡潔に、多少とも執拗さ、軽快さ、重苦しさをもって、カンバス上に、スクリーン上にひとかたまりに与えられる映像を示唆する。それらは、多少とも誇張された、多少ともテンポのはやい、多少とも乾いた、多少とも中立的な叙述のスタイル自体を連動させる。
 最初の例では、より多くの執拗さ、より多くの時間があり、二番目の例よりも長い、視線、ショットの持続を示している。三番目の例では、造形的な効果は弱まり、低く見積もられ、記述は純粋に情報を提供するものになり、四本の瓶の集まりはより少なく「演じている」。このように、時間についての標示は描写のなかに表わされていないにもかかわらず、持続はそこに書き込まれ、言外の劇的な広がりや、リズム、物語言表の早さと遅さもそうである。
 したがって映像を、その強度と持続のなかで、感じ、提示することが重要である。「物語を語るのは映像である」。
 しかしながら、映像において本質的なものは、トニーノ・グェッラがここで観念と名付けているものである。恐れの、寒そうに怯えて身を寄せていることの観念、それはシーンにその「感情」をあたえる。
 映画のなかに感情を運ばず、感情によって運ばれるようなシーンがあってはならない。感情と観念は異なってはいないし、異なってはならない。ひとつのシーンは、もしそれが感情を欠いているなら、役に立たない。というのも、私がトニーノ・グェッラから借用した象徴的でこのうえなく静止した例においてすら、事物を動かし、運動をつくりだすのは、感情だからである。「感情が事件を導くべきだ。その逆ではなく」とブレッソンは命じている。*4
 演技術のレッスンのなかで、ルイ・ジューヴェは「感情」を、倦むことのない強迫的な探求の対象とした。彼の講義の速記録のなかに、私たちはしょっちゅう次のような注意を見出す。
「もっと感じるんだ、この女性の感情をもっと感じとるんだ。彼女はそこに、天から遣わされて、そこにやってきただけじゃなく、愛人を救いにやってきたんだ」。*5このような指示を通して、彼がそのように探し求め、生徒の演技を通して追い詰めようとしている「感情」が、シーンそれ自体の感情であり、それがシーンにその意味、その因果関係さえあたえることを理解する。
 私たちが恐怖、熱狂、その他の感情を与えようとするとき、私たちが見出さなければならないのはつねに、舞台美術的、造形的、劇的秩序の構成要素である。私たちが「一人の女性が愛人を救いにやってくる」というシーンを作り出さなくてはならない場合、伝達すべき純粋な情報が問題なのではない。私たちは行為だけでなく、同時に外延的に─そして、それこそが困難であり、繊細さ、正確さ、創意が必要なのはそこであり、「トーン」、スタイルが与えられるのはそこである─この発意が前提とする苦悩、心の昂り、並外れた勇気を示さなくてはならない。
 もし、私たちが「台詞のコンティニュイティ」を書くときに、「エルヴィール〔ドン・ジュアンの妻〕は、その意に反して彼を救おうと決めて、ドン・ジュアンの家に入る」と書くことが理論上、禁じられているとすれば、それは「その意に反して彼を救おうと決めて」という句が原則的に映画の言葉では何も意味せず、それに対応する映像は「エルヴィールはドン・ジュアンの家に入る」ということの他は何も表わさないことを、私たちが知らなくてはならないからであり、こうしたことはシナリオライターの仕事のイロハとなっている。だが、それはとりわけ、どんな仕草、登場人物が口にするどんな言葉、どんな具体的な障害が、問題となっているシーンのなかで登場人物を動かす決断、力強さ、弱さ、活力、愛情を、「運動状態にある」スクリーンのうえで、生じさせようとするのかを見出すことから、私たちがしなければならない仕事全体が成り立っているからである。
 それゆえ、「映像」と呼ばれるものが言葉から独立していると信じるのは間違っている。反対に、それに宿り、それを支え持ち、それに力と根本的な衝撃をあたえるのは、言葉である。それゆえ、映画であるところの映像と音はシナリオ、言葉というものを必要とする。
 すでに見てきたように、「ブルドン通りでは33度の気温だった」といった、報告書のようなわざと乾いた感じの文章は、かろうじて、苦労して、シナリオの言葉に書き替えられる。それは逆説である、なぜなら、シナリオに関する普通の考えは、それに適したエクリチュールが報告書の簡潔さをもたなくてはならない、というものだからである。逆に、より一層「文学的な」スタイルの文章が、シーンやシークエンス、さらには物語全体が必要とする劇的な雰囲気をただちにあたえることが起こりえる。次のように言ったのはエイゼンシュテインである。
  「時には、あるシナリオの中の言葉の純粋に文学的な配置は、顔の表情についての報告者の最も細心の報告よりもよく、それについて私たちに伝えてくれる。
 『死の沈黙が空中を漂っていた』
 この文章と、視覚的現象の具体的知覚とのあいだに共通なものはあるのか。
 沈黙を掛けるのに適したフックはどこにあるのか。
 しかし、仲間を銃殺しなければならない者の震える銃が、覆いをかけられた受刑者の息で揺れている帆布に向けられる時に、耐え難い死んだ時間についての観念全体を明確にしなければならないのは、この文章、より正確には、『戦艦ポチョムキン』の反乱の参加者の回想録を映画的に具現化する企てである」。*6
 だから、シナリオ的なエクリチュールは、たとえそれが実際にできるかぎり簡潔でひきしまって密度の高いものでなければならず、「文学」のスタイル上のまわりくどさを引き受けてはならないとしても、必要なときには、情動と心の昂りを喚起し、それらが詰め込まれていなくてはならない。「死の沈黙が空中を漂っていた」。サイレントの時代には映画の言葉に翻訳するのが、より難しいこの文章、それこそ、ジューヴェが「感情」、トニーノ・グェッラがシーンの「観念」と呼んでいるものをもたらす。
 おおくを「つくる」必要はない。たとえば、知り合ったばかりの二人の若者が散歩をしている。問題になっているシーンの終わりに、台本は次の文章を含んでいる。
  話し、歩きながら、彼らはセーヌ河畔を離れた。
  彼らはあるホテルの入口で立ち止まった。
  二人ともそれ以上、歩を進めなかった。彼らは見つめあった。
  そして、彼女が彼に微笑んだ。
 この「そして」に相当する映像の言葉はない。スクリーン上でそれに対応するものは何もない。だが、それは、シーンの感情的なターニングポイント、若い女性の心のなかの感情の目にみえない成熟の突然の結果を示しており、ホテルの入口の前で微笑むという決断は、そこへ男と一緒に入ることの承諾─あるいは誘い、それは曖昧だ─、すぐ後に、そしてより長い期間に続いて起こることの承諾を示している。
 「そして」は、ここでは、ある境界、目には見えない中立地帯、登場人物の運命を変えつつある時間の一部を超えることを示している。
 もし、「二人ともそれ以上、歩を進めなかった。彼らは見つめあった。彼女が彼に微笑んだ」と書くだけで満足するなら、彼女が示す越境、決断、知覚できない心の昂りは表わされないだろう。シーンは、生気を欠いた機械的なものになるだろう。
 その他のこと(つまり、引用されたシナリオでは、シーンを終わらせ、「この微笑みは彼女の本心を明かす」と締めくくる「オフ」の声)は語りのスタイル、選択の問題である。
 次のことを付け加えよう。シーンが撮影されるとき、土壇場になって演出家が、女優は微笑むのではなく、たとえば、目を伏せるとか、横を向くとか、男の手をとるとかしなければならないと決めることは大いにありえる。それは、俳優に応じた、彼らのあいだを通過する、あるいは通過しないことについての感覚的な判断の問題であり、つまりは演技指導の問題である。
 だが、とてもよく起こるそうしたことが、シナリオライターを怠惰に導いてはならないし、いずれにせよ、撮影の際に「彼らはうまく何か見つけるだろう」などと思うようにさせてはならない。それは任務の放棄であるだけでなく、演出と比べること自体、間違いだろう。というのも、演出家(あるいは、時には俳優)が土壇場になって、ある別の観念、それどころか反対の観念を見出すならば、それは、この踏み台、感情的な状況の最初の入念な準備のおかげであり、撮影の具体的な状況のなかで、この新しい観念(演出の、演技の)が見出されるという、おそらくは単に、この「そして」によって生みだされる感情的なひらめきのおかげだろう。
 ブレッソンは、とても綿密に、「昔風に」、つまりショットの大きさをメモし、音の指示と映像の指示の間を垂直に分割して(それはシナリオをとても読みにくくするので、ほとんど行われることがない)、シナリオを書いた。そして彼は撮影の際に全てを変える。
 トリュフォーはおよそ次のように言った。シナリオに抗して映画を撮影し、撮影に抗してそれを編集しなくてはならない。だが、この「抗して」は、もしシナリオがしっかりと存在し、演出がしっかりと存在しなくては、起こらない。さもないと、編集の際、私たちは、あまりにも多くの編集者たちが知っている不可能な任務を前にすることになる。すなわち、映画を「救う」、つまり、十分なシナリオと真の演出を欠いているために、決して映画の名に値しないものに、編集によって存在の見せかけを与えること。
 ここで、いずれにせよ、私たちが語る物語が、前部と後部の間の、唯一の平面、唯一の線の上でだけではなく、いくつかの方向において、展開することがわかる。
 物語は単に、そして原則的に、そのカタログが限られていることがすぐにわかる(多くのアメリカ映画とその続編が証明しているように)思いがけない出来事の連鎖から、成り立っているのではない。物語はいくつかの次元を内包している。そこには、前のショット、後のショット、オフ空間─複数の後のショットと複数のオフ空間がある。それは、下品に暴くのではなく、まず掘り下げることが問題である秘密、陰謀、謎の一部をなす。

シネマトグラフ覚書―映画監督のノート

シネマトグラフ覚書―映画監督のノート

*1:どうして詩であってはいけないだろう。ミロシュ・フォアマンの『アマデウス』は現代演劇のある戯曲からうまく引き出されたものだが、問題の戯曲が、プーシキンの二幕物の悲劇詩『モーツァルトサリエリ』のあらすじを、物語の形式で展開したものだということはあまり知られていない。

*2:「〔ヴィジョンが私に差し出すものをそっくりそのまま言うことを〕要求するのは、まさしくヴィジョン〔l'image〕にほかなりません」『ルサンブランス』、清水正・豊崎光一訳、ペヨトル工房、一五五頁。クロソウスキーと、その作品の独特な映画的処理(ピエール・ズッカ、ラウール・ルイス)について、シナリオと幻想、とりわけ性的幻想からしばしば喚起される親近性を想起しよう。以下参照。

*3:Marie-Christine Questerbert, Les Scenaristes itariens, 5 Continents /Hatier. pp. 184 et 189.

*4:ロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書』、松浦寿輝訳、筑摩書房、四三頁。

*5:Louis Jouvet, Moliere et la comedie classique, Gallimard, p. 110. Cf. aussi Elvire Jouvet 40 (texte du spectacle de Brigitte Jaques), BEBA-Theatre, 1986.

*6:《De la forme du scenario》in Au-dela des etoiles, U.G.E. 10 /18, p. 205. Cite par Benoit Peeters, 《Une pratique insituable》in Autour du scenario, Editions de l' Universite de Bruxelles, passionnant ouvrage collectif sou la direction du meme B.P.