ジャック・ターナーあるいはPrince of Darkness

hj3s-kzu2005-12-25

ジャック・ターナーとは誰か?それについてはティエリー・ジュスがよくまとまった紹介文を書いているので以下に訳出する。

ジャック・ターナーと恐怖の三部作」 ティエリー・ジュス

映画監督モーリス・トゥルヌゥールの息子、ジャック・ターナーは1904年11月12日にパリで生まれた。1914年、彼の父親はアメリカに旅立ち、そこで著名な映画監督となったが、その時一緒にジャックもハリウッド入りした。1919年にアメリカ国籍を得てから数年後(正確には1924年)、ジャック・ターナーはMGMに雇われ、父の小道具係、俳優、アシスタントとしてスタートを切った。1927年、モーリス・トゥルヌゥールはフランスに帰国。息子は父親に同行し、その映画の編集者となり、それから1931年に『愛に適うものはなし』で映画監督としてのキャリアをスタートさせる。なおこの映画にはデビューまもないジャン・ギャバンが出演している。数本のマイナー映画をフランスで撮った後、1935年、ジャック・ターナーはハリウッドに帰る。MGMで彼はプロデューサーのヴァル・リュートンと出会い、その下で、ジャック・コンウェイ監督の『二都物語』のバスティーユ襲撃のシーンを演出する。この出会いは、ジャック・ターナーの経歴上、決定的なものである。というのもそれによって、約二十本ほどの短編と何本かのシリーズものの後、1942年の名高い『キャット・ピープル』、続く1943年の『私はゾンビと歩いた!』と『豹男』とともに彼のキャリアは本格的に開始されたからである。それらはRKOの枠内でヴァル・リュートンによって製作されたいわば恐怖の三部作を形作っている。この衝撃的な三部作の後、ジャック・ターナーリュートンと別れ、大抵は自分で選んだわけではないジャンルとシナリオに仕える控えめな仕事を続けることになる。
そのことは彼が重要であることの妨げにはならないし、彼はしばしば、B級映画作家の模範、最も隠された不可視と恐怖の探究に基づくニュアンスに満ちたスタイルの控えめな演出家とみなされてさえいる。60年代の初めまで、西部劇からフィルム・ノワールや海洋冒険映画にわたって、ジャック・ターナーはある現実的な余裕をもって、長い間あまり知られていなかった一握りの傑作を撮ったが、そのなかには、今日誰もがフィルム・ノワールの頂点と認めるロバート・ミッチャムカーク・ダグラス主演の『過去を逃れて』(1947)、燃えるように輝くと同時に精緻な海賊映画の『女海賊アン』(1951)、神話的な人物である保安官ワイアット・アープの彼なりの解釈を提示した西部劇の『法律なき町』(1955)、長い間フランスでは未公開だったが今ではデヴィッド・グーディスの最も美しい翻案とみなされている『夕暮れ』(1956)、さらには、最後の瞬間に彼の映画にばかげた怪物を登場させるように強いたプロデューサーたちとの軋轢にもかかわらず、よろこびに満ちて彼がヴァル・リュートンとの三部作の幻想的な世界に回帰した、悪魔学のぞっとするような正確さに満ちた『悪魔の夜』(1957)などがある。1966年にフランスに戻ってベルジュラックに居を構え、1977年12月19日に亡くなるまでジャック・ターナーはそこで静かな日々を過ごした。フランスでの最後の滞在の間、ターナーは新しい映画を編集しようと虚しくもとめたのだが、また彼は「カイエ・デュ・シネマ」「プレザンス・デュ・シネマ」「ポジティフ」らフランスの映画狂の間で遅まきながら誠実でさらには独占的な承認を勝ち取った。その死から二十年以上も経って、ジャック・ターナーは、映画狂によって、オットー・プレミンジャーフリッツ・ラングダグラス・サークのようなハリウッドに亡命したヨーロッパ人として、現代の古典の殿堂のなかに重要な地位を与えられ、今日再びそれに続く世代にとって不滅でますます重要な崇敬の対象となっている。
(訳:Contre Champ)

a)『過去を逃れて』(ジャック・ターナー)★★★★
b)『ベルリン特急』(ジャック・ターナー)★★★★
c)『悪魔の夜』(ジャック・ターナー)★★★★