十善戒のまとめ

おかげさまで立ち見まで出るほどの大盛況だった「十善戒」だが、個々の作品についての大雑把な感想を以下に述べておく。
「不破戒」は商品としての見栄えが一番完成された作品だったが、そのことによって逆に私には細部の欠点が目についてしまった。狭い路地の空間を実に見事に活かしているだけに、後半の空き地の空間の演出のまずさが気になったし、西山朱子の素晴らしい演技(特に路地の隙間に潜んだ彼女のアップ)が際立つだけに、他のキャストの演技の質のばらつきが気になった。また映画におけるフレーミングというものに対する覚悟(撮影時における)がこの映画作家には欠けているように思う。とはいえ、優れた脚本家でもある彼女の書いた美しい台詞の数々(「ちょうちょう」をめぐる)には魅了されたことは素直に告白しておく。
「不殺生」(別題『三八』)は、不発に終わった前作『暴力長者』と同じキャスティングを使って、見事リベンジに成功している。遠山智子の撮影によるモノクロ画面も素晴らしいし、多くの出演作がある宮田亜紀もこれまででベストの演技をしていると思う。唯一、気になったのは、西口浩一郎演じる在日の日本兵は上官を撃たないほうがよかったのではないかという点である。が、それはこの作品の美点を損なうほどではあるまい。
「不偸盗」(別題『お城が見える』)は11作品中、群を抜いた作品である。マルチキャメラを使った複雑な編集と、ここぞという時に切り替わる決定的な画面はこの映画作家の力量が本物であることを十二分に示している。しかしこの吉岡睦雄演じるDV加害者に向けられた作者の酷薄な眼差し(端的に言うならば、最初の方で、オフで語られる映画作家自身によるコメント)に、私は乗れなかった。それは、たとえ現実の世界がどれほど醜く希望のないものであっても、映画だけはそれを救う力があるのではないか、とのはかない望みを私が抱いているからであり(例えば先日見た植岡喜晴の傑作『ルック・オブ・ラブ』はそのような作品だったはずだ)、おぞましいものをおぞましいままに見せることは、リヴェットの言った「ポルノ」*1すれすれの行為なのではないかとの疑義を拭えないからである。この点においては、たとえ演出的にやや劣るとはいえ、「不破戒」のいささか楽天的なラストの側に寄り添いたいと思う。とはいえ「不偸盗」の圧倒的な10分間は機会があったらぜひ体験してもらいたい。
「不邪淫」(別題『ある女の存在証明・断絶』)は、あの感動的な『サンドラブロックスのフェイク/人生〜千浦編』の映画作家が、再びゆるーい映画史的引用遊びを繰り広げた作品だが、それほど不快感を覚えないのは何故だろう。不思議な作品だ。「不破戒」「不殺生」「不偸盗」と息苦しいまでの密に詰った作品が並んだせいで、この「不邪淫」の軽快な音楽が始まった途端、ホッと息をつけた感じがある。こういう作品は必要だ(出来の良し悪しは別として)。上半身裸で白いシーツに横たわる西山洋市はかなりエグかった。
「不妄語」(別題『私とかずぼん』)はこの映画作家お得意のヒロインの一人語りのナレーションの作品。撲殺された詐欺師の弟が画面に現れる瞬間だけは面白かった。ただ自主だからといって手持ちで済ませないで、三脚を使ったほうがいいとは思う。
「不綺語」(別題『エル地点』)は、ここに登場する男たちが何のために山奥に集まって、どのような理由によって人を殺めるのかがよく分からなかった。ただ上司役のオジサンはいい味を出していたし、青山あゆみのアップもよかったと思う。
「不悪口」の映画作家とは、映画美学校時代から8年来のつき合いだが、脚本家としては優れた仕事をしていた彼が、ついに自分で監督をしたというただそのこと自体に感動した。だが正直に言うと作品自体にはあまり乗れなかった。ただヒロインのアップは魅力的だったと思うし、西山洋市がこの作品を一番評価していたことは付け加えておく。
「不両舌」は遠山智子が美しかったことを除けば、あまり語るべきことはない。私はこの大時代がかったメロドラマに乗れなかった。
「不慳貪」(別題『火の娘たち』)は自作なのでコメントを差し控えさせていただく。ただ敵役の居原田眞美は喝采を持って迎えられたことを述べておこう。なお筒井さんには「Contre Champ(切り返し)を名乗ってるくせにカットバックがヘタ」と言われ、plan-sequence(長回し)に改名しようかと本気で思った。また大笑いしながら編集した箇所で、場内に爆笑が起こったのには我が意を得たり。自分には無理と諦めていたコメディに今度は挑戦してみようかしら。
「不瞋恚」は未完成につき何ともコメントしがたいのだが、監督自身によるヘタウマの手書きアニメに味があったのと、たった二分ほどの本編の後に予告編までつけてしまう図々しさは見習いたいと思った。この人は実写よりもこういうものの方が向いていると思う。少なくとも彼がこれまで撮ってきた作品よりもこちらの方が好感を持てた。
最後の「不邪見」(別題『真・夫婦刑事外伝 逃げ去る不邪見』)は「夫婦刑事」シリーズ最新作。最初にダニエル・ユイレの顔写真が一瞬現れ、そのことに不意を突かれる。そう先日亡くなったこの偉大な映画作家もまた「夫婦」で仕事をしてきたのだし、「不邪見」の作家も妻とともに『Unloved』『接吻』といった傑作を作り上げたのだった(ちなみにこの「不邪見」を彼は幼い娘と一緒に撮った)。で、作品の内容はというとシリーズ総集編のような趣きで、夫婦刑事がこれまでの事件を振り返り、その犯人割り出しのプロセスに誤謬が含まれていたのではないかということを映像を使って考察するという、ほとんど70年代ゴダールのようなもので、ぜひとも小中学校のメディア教育の教材として使ってもらいたいような作品。ここでは映画の根幹をなすモンタージュの概念自体がモンタージュによって疑義に晒される。
ところで「十善戒」上映時に配付されたパンフの作品データから割り出すと、それぞれの作品は平均製作費3.6万円、平均撮影日数2日、平均スタッフ数5人(監督も含む)という条件の下に撮られている(「不瞋恚」はアニメーションのため除く)。逆に言えば、これだけの条件さえあれば、10分の短編は撮れるということである。「十善戒」打ち上げの席上で映画美学校の10期生の一人が、今期から10分の短編をたった10万円の製作費で作らなくてはならないと不満をこぼしていたが、それが「甘え」に過ぎないことは上のデータが証明している(たとえそれ以前の期に比べて予算が大幅に削減されたとしても)。しかも「十善戒」の各作品のクオリティは今年の映画美学校映画祭に出品された9期生の作品群(15分で30万だっけ?)と比べてひけをとらないどころか、それを大きく上回るものが大半を占めていたように思う。この事実はいろいろなことを考えさせる。要するに、最終的に学校側から選出されるのを待たずに、勝手に自分たちで撮ればいいのだ。この当たり前の事実が映画教育という制度的な場では忘れられてしまう。

不屈の精神

不屈の精神

*1:「卑劣さについて」『不屈の精神』所収