フランソワ・トリュフォーとことんウルマーを語る

フランソワ・トリュフォーによる『裸の夜明け』評(1956年)

『裸の夜明け』は、あまりにも前宣伝がなされなかったために、あっさり見逃してしまうかもしれない、そんな小さなアメリカ映画である。ユニバーサルはこの映画を配給する代わりに妨害行為を行なった。あたかもそれを批評家たちから遠ざけておくことを望んだかのように。しかし私たちは、商人たちには屈しないだろう。低予算映画『裸の夜明け』は、詩的かつ暴力的で、やさしく奇妙で、感動的で繊細で、喜びを与えるような活力に満ちていて健全である。
オープニングクレジットは、メキシコ国境の列車強盗の場面から始まる。二人の盗賊のうち一人が、仲間の腕の中で息絶える。サンティアゴ(アーサー・ケネディ)は一晩中さまよい、若い農夫マヌエル(ユージーン・イグレシアス)と魅力的なその妻マリア(ベッタ・セント・ジョン)に出逢う。この映画はサンティアゴとマヌエルの旅を物語る。つまり、サンティアゴが盗んだ時計を街に売りに行き、帰宅途中でキャバレーに立ち寄り、そして強烈で予測不可能な結末を迎えるような旅である。
重要なことは、繊細で曖昧な三人の関係であり、それは優れた小説の特性でもある。私の知る限り、最も美しい現代小説の一つにアンリ=ピエール・ロシェの『突然炎のごとく』があるが、それは絶えず問い直される美しいモラルによって、優しさとそれにほとんど無情さなしに、如何にして生涯にわたって、二人の男と一人の女が愛し合い、ともに愛をわかち合うかを示している。『裸の夜明け』は『突然炎のごとく』が映画化できるというアイデアを私に与えてくれた初めての映画である。
エドガー・ウルマーは、疑いも無く最も知られていないアメリカの映画作家である。私の同業者(=批評家)で、フランスでヒットしたごくわずかな数の彼の作品を見たことがあると自慢できるような人はほとんどいないが、それらの作品は全て、驚くほど新鮮で誠実で創意に富んでいる。すなわち、『奇妙な女』(モーリアック×ジュリアン・グリーン)、『バグダッドの娘たち』(ヴォルテール風のからかい)、それに『野望の果て』(バルザック)。二十世紀と共に生まれたウィーン人は、まず、マックス・ラインハルト、次いで、偉大なムルナウの助手となったが、ハリウッドでは運に恵まれなかった。それは、多分彼がこのシステムに馴染むことができなかったからだろう。楽天的なユーモアと陽気な態度、自分の描く登場人物たちに向けられたやさしさは、避けがたくジャン・ルノワールマックス・オフュルスを思い起こさせる。それでもやはり、シャンゼリゼ通りの観客たちはこの映画が好きになった。ちょうど数ヶ月前にロバート・アルドリッチの『キッスで殺せ』を好きになったように。
『裸の夜明け』について語ることは、その作者の肖像画を書くことに等しい。と言うのも、私たちは全てのイメージの背後に彼を認め、光が推移するときに彼を身近に感じるからだ。賢明かつ寛大で、陽気かつ穏やかで、生き生きとしてかつ明晰で、一言で言えば、先ほど私が比較した人々のような善人である。
『裸の夜明け』は、喜びと共に作られたことがわかる映画の一つである。すなわち、あらゆるショットは映画への愛と映画を作る喜びを示している。それはまたこの映画を繰り返し観て、友人たちと語る喜びでもある。ハリウッドからの小さな贈りものだ。
(翻訳:葛生賢)