原理主義と眼差し

先日の蓮實=フロドン対談の詳細なレポを読みたいなあと思い、ネット上のいくつかに当たってみるがもの足りず。そう思っていたところに、M君からブリリアントなレポがメールで送られてきた。しかも黒沢=ドゥニ対談のおまけつき。さすがだ。読んで、フロドン氏ってやはりろくでもない「映画批評家」だなあ、という思いを改めて深くした。他人に丸投げで本質的なことは何一つ言っていない。またレポをアップした人には悪いが、そのレポがある一点において蓮實氏の発言(「シネフィル」問題)を誤読していることも分かった。件の発言は「文学に詳しくても偉くないのに映画に詳しいシネフィルが偉そうにしている。映画原理主義で世界を見ようとしていない。その一方で映画など観なくて良いのだという運動がある。そういった中で批評がどうあるべきか?カイエはどうやっていくのか?」(メールより無断引用)という問題意識の中で発せられたもので、そこを見落とすと単なる「シネフィル批判」になってしまう。この蓮實氏の問いに対してフロドン氏の答えは何も言っていないに等しい。そして周知の通り、この問いに対する回答のヒントは、セルジュ・ダネーの早すぎる晩年の仕事にうかがえる。「カイエ」から「リベラシオン」に移った彼(面白いことに「ル・モンド」から「カイエ」に移ったフロドンはこの歩みと逆行している)の仕事を一言で要約するなら、映画で鍛えた眼差しを世界に切り返すこと、だと思う。もちろんこれは一つの回答であって、人によって回答も変わる。また映画から世界に性急に(?)ジャンプしたダネーとは違い、蓮實氏の問題意識はあくまでもより映画の側に寄り添っているようにも思える(もっとも彼は映画で鍛えた視力をスポーツ批評に応用している、とは言えるかも知れない。また「論座」に載ったインタビューでのイラク状勢をめぐる分析も見事だった)。いずれにせよ、これは何も「カイエ」やフロドン氏だけに向けられたものではなく、いやしくも「映画批評家」を名乗る人たちはこの問いかけを真摯に考えてみるべき時期にあると思う*1。かといって最近よくありがちなカルスタ、ポスコロ、精神分析、現代哲学などのフレームを外部から映画に当てはめて事足れりとするのではなく、あくまで「みること」と「きくこと」から出発するのが前提であることは言うまでもない。ジル・ドゥルーズがかつて述べたように「映画は精神分析や記号学とは何の関係もない」(今日では精神分析や記号学のところに他の学問分野を代入することが可能だろう)。ここで問われているのは「映画だけを見ること」と「映画だけを見ないこと」との二律背反である。

不屈の精神

不屈の精神

*1:もちろんすでにこの問題に取り組んでいる人も若干は存在しているようにも思われる。