なにか有機的なもの/ポルノグラフ/クロッシング・ガード

a)『なにか有機的なもの』(ベルトラン・ボネロ)
b)『ポルノグラフ』(ベルトラン・ボネロ)
c)『クロッシング・ガード』(ショーン・ペン

a)「カイエ週間」で。ひさびさに「発見」の喜びを味わった。不穏な雰囲気の音楽に伴われた、ローマヌ・ボーランジェとローラン・リュカの真横からのバストショットの長めのキスシーンに続いて、血飛沫が壁についた部屋のベッドの上に頭を打ち抜かれたボーランジェとその脇の椅子にピストルを手にぐったりしているリュカのショットの後にタイトルがインサートされ、その後、望遠レンズで捉えられた動物たちのクローズアップという、冒頭の画面構成を見ただけで、この作家はただ者ではないということが分かる。ローラン・リュカの勤め先の郊外の寂れた動物園が素晴らしい。彼は、口が利けない寝たきりの自分の息子の病室へ、その孤独を紛らわせてやるために、勤め先からこっそり猿や縞馬の模様に彩色された子馬などを連れてくるのだが、動物たちは時にユーモラスに時に無気味さをかもしだしながら、見事に画面を活気づけていく。後半、行きずりの男と逃避行に出かけたボーランジェが、ひとりバーでコーヒーカップを手に無為の時間を過ごしていると(このシーンもとても素晴らしいのだが)、彼女に目を付けた男たちが一人二人と彼女の回りのテーブルを埋めていく様も面白い。そのすぐ後のシーンで雪のふる夜の路地でその男たちに彼女は次々と服を着たまま後ろから犯されていき、画面は彼女が声なき叫びを上げている様をクローズアップで捉える。この場面はとても美しい。彼女がホテルの部屋に戻ると夫が待っていて、無言で二人は見つめあい、そこで映画は終わる。

b)ラスト、抵抗する若者たちの無言と初老のジャン・ピエール・レオーの饒舌をドライヤーの『あるじ』が連結する。この映画に出てくるポルノ女優たちは皆美しく輝いている。おそらく、他のポルノ映画に出ている時の彼女たちはそれほど美しくないかもしれない。見ていてブレッソンの「モデル」についての考え方を想起したのだが、彼女たちが美しいのは、この作家が彼女たちをその魂の次元で掴み撮っているからだろう。なお、カール・ドライヤーの他にジョアン・セーザル・モンテイロの映画からの抜粋も登場するのだが、スクリーンに彼の姿を認めた瞬間、とても嬉しくなった。モンテイロの全作品が見たい。

c)『プレッジ』と共通する主題が認められる。殺された少女の復讐をニコルソンが果たそうとするのだが、それはついに果たされることなく終わるということだ。ラスト、デイヴィッド・モースを撃ってしまったニコルソンの顔に浮かぶ「しまった」という表情が絶妙。というのも見ているわれわれも加害者であったはずのデイヴィッド・モースにニコルソン同様、シンパシーを感じはじめているからだ。この場面で彼が死んでいたなら実に後味の悪い傑作となりえたのかもしれないのだが、幸い銃弾は彼の首筋をかすめただけである。例えば、イーストウッドの映画であれば割と明確に善悪のラインが引かれていると思うのだが(ただし『ミスティック・リバー』は未見)、ショーン・ペンの映画においてはそうなってはいない。そこがある種の後味の悪さの様なものを残す原因となるのだが、それは彼の持ち味とも言えるので、その辺に関しては肯定的に評価したい。


クロッシング・ガード


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